渡辺格 わたなべ いたる

学術

掲載時肩書慶應義塾名誉教授
掲載期間1997/01/01〜1997/01/31
出身地島根県
生年月日1916/09/27
掲載回数30 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社理化学研究所
配偶者医者娘 
主な仕事東京文理大、物質→生命→精神(生命科学)、バークレー校、東大、京大、慶應、かずさDNA研
恩師・恩人水島三一教授(仲人)、片山正夫教授、川喜田愛郎
人脈福永武彦、江上不二夫、柴谷篤弘、柳田国男夫妻、ワトソン、クリック、早石修、湯川秀樹、春名一郎、利根川進のメンター(師匠)
備考父医師、母御茶ノ水
論評

1916年9月27日 – 2007年3月23日)は島根県松江市生まれ。分子生物学者。1949年江上不二夫、柴谷篤弘らと研究会を作り「核酸シンポジウム」を開催。フルブライトの資金で1953年から1955年までカリフォルニア大学に留学し、バクテリオファージの研究を開始する。東京大学理学部、 京都大学ウイルス研究所、マサチューセッツ工科大学を経て、慶應義塾大学医学部教授。慶大では分子生物学教室を開き、1978年、日本分子生物学会を設立し、初代会長を務める。日本学術会議副会長などの要職を歴任。後進の育成に取り組む一方で、著述を通し科学の進歩が人間にもたらす負の影響を指摘し続けた。渡辺の弟子の一人にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進がいる。

1.物理化学から生命科学への転身
私は量子力学に興味を持ちながら、化学を志した。物理と化学をつなぐ研究を目指した。人間の意識、心をきちんと理解する道はないか。宗教や倫理ではなく、みんなが理解できる自然科学として、死や自我や心を捕らえられないか。そんな思いが、戦後の出発点になった。
 昭和21年(1946)の夏休み、寝転んで空を見ていたときに、物質から生命そして精神と、物理化学と精神の間に生命を挟めば、心を自然科学で理解できるかもしれないと思いついた。
 近代科学の源流であるデカルトの物質と精神の分離とは真っ向から反することになる。そこで私は夢を見て、デカルトはこう言わせた。「物質と精神の分離は、キリスト教社会で科学を進めるための方便である。まず事物の本性を知る格物致知が大切で、それは生命世界を知り、最終的に魂の問題を扱うための回り道である」。夢枕のデカルトの了解を得て、私はまず生命科学へ転身する。

2.天才ワトソン博士の人柄
二重らせんの発見者の一人、ジェームス・ワトソンと最初に会ったのは、昭和28年(1953)の12月だった。彼は5月に英国でDNAの二重らせん構造を発表して世界にセンセーションを巻き起こした後、9月にはカリフォルニア工科大のデルブリックのところに研究員として戻っていた。
 バークレー校の研究者の家で開かれたセミナーで一緒になったが、ノッポの変わり者という印象だった。翌日研究室で話をした。完全に別世界の人という感じで、こういうのが天才なのかと思った。身なりは構わないし、本人がキングイングリッシュだという話しぶりは、あまり歯切れがよくない。したがって、女性の受けは芳しくない。威張っているわけではないが、こちらの研究テーマなどについて、「おかしい」「意味がない」などと、ずばりという。
 2度目に会ったときは、ステントの家で妻も招待されていた。ワトソンを見て妻はこう言った。「あの人にはかなわないわよ。あなたも身なりに無頓着だけれど、靴下はペアではくでしょう。博士は左右別々で平気なんだから」。

3.両陛下にDNAの実物(生命の文明を)
平成3年(1991)1月、私は宮中でご講書始めのご進講役を務め「物質から生命、そして精神」という自然科学の流れをお話しした。その時は、赤坂御所にうかがい、両陛下と紀宮様に、「生命とDNAについて」を、サケの白子のDNA溶液を用意してゆき、それにアルコールを加えてDNAを沈殿させ、それを割りばしでつまんで取り出すという実験も経験していただいた。
 日本の皇室には、DNAが具体的にどんな物質か、実物をご存じの方が少なくとも三人はいらっしゃることになる。物質文明は生命文明にとって代わられるというのが、私の文明観である。生命文明の意味は生命世界を豊かにする文明ということである。

渡辺 格

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