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母がスパルタ教育

柏木は大蔵省(現:財務省)きってのアメリカ通で、国際金融通として知られ、初代財務官の役職は彼の才能を活かすための役職ともいわれている。

彼は大正6年(1917)中国大連生まれで、昭和16年(1941)東京大学を卒業し、大蔵省に入省する。父親が横浜正金銀行(のち東京銀行)の大連支店次長(のち同行頭取)だったとき生まれ、その後、父親の転勤でアメリカに住む。満12歳のとき日本に帰国したが、読み書きできる日本語は、ひらがなに簡単な漢字を合わせても、わずか150字足らずだったという。
 彼は生まれてから12年のあいだ、二度ほど夏休みを利用して一時帰国したことはあるものの、アメリカ滞在中は日本語を学ぶ機会も、使う場面も乏しかった。日常では当然、両親と日本語で会話をしたが、それは耳で覚えた言葉にすぎなかった。
 彼にとっての母国語は、すでに英語になっていたのである。帰国することになり、両親は柏木の日本語の読み書き能力について案じてくれた。それゆえ帰国後の教育はすさまじかったと、柏木は次のように語っている。

わが子の教育に関し、母は必死だった。教育勅語がなかなか暗記できないとみると、私の入浴中、脱衣所に入ってきて、ガラス戸一枚隔てた向こう側で大きな声で読んで聞かせた。こちらはそれを復唱して頭の中にたたき込んでいくわけである。
 日本語の読み書きは、帰国後ほどなくして人並みになったとはいえ、筆の方はまるでだめだった。習字の宿題となると、母の書いてくれた手本を敷き、その上に新しい半紙をのせて、母の字をなぞってつじつまを合わせたものだった。

 このエピソードは、母親の子供に対する教育の一途さが痛いほど感じられます。
 母国の日本社会に息子を適合させるため、母はあらゆる機会をとらえて日本の教育に全エネルギーを傾けたのでしょう。その甲斐あって、思春期に彼が書いたラブレターは、小学校の生徒のような字であっても、相手の心を動かすものだったと本人が自慢しています。
しかし、中には帰国子女は日本語の単語や熟語などが思うように話せず、また漢字も書くことができないため、日本人社会に馴染めず疎外感を感じ、外地に戻ってしまう子女も見受けられます。帰国した両親も一緒に日本で生活することを望みますが、子供たちの将来を考えるとグローバル化が進んでいる現在、子供たちの希望どおりにさせる方が良いと考え、外地に送り出す親も多くなりました。どちらが良いかは、それぞれの家庭の事情により異なってくるでしょう。
それでも成功事例では、子女の教育を両親が役割分担で協力しあっていました。特に家庭おける学校の宿題は母親が、そのチエック機能を父親という形です。それでも、日本の風俗・習慣のほか国語や歴史など文化系科目など大部分は母親が、理科や数学などの理系科目は父親が、得意分野で協力しないと負担の重い母親に一層の負担がかかってしまいます。父親が仕事中心で子どもの教育を妻に丸投げしていては、とても子供を立派な社会人に育てられません。「両親が本気で子供教育に取り組まなければ子供は勉強をしない」といいます。
それでも帰国子女は外国での生活経験があるため、国際感覚があり異文化への理解を持っていることは、日本人の子供たちよりこの点が優れているのですから、もっと自信を持たせたいものです。


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