著名経営者で天風先生を敬愛した人物としていつも名前が挙がるのが、松下幸之助氏と稲盛和夫氏です。しかし、このお二人とも日本経済新聞の「私の履歴書」の中には、天風先生の名前は出てきません。(天風先生と松下幸之助氏との関係については、「志るべ」2018年2月号に掲載させていただきました。)
稲盛氏が「私の履歴書」でわずかに天風先生らしき人物を紹介しているのが、掲載最終日に「私は以前あったヨガの聖者の言葉から、自分の人生は80年くらいと勝手に思っていた」というくだりだけです。しかし、稲盛氏の月刊誌「致知」での巻頭言や著名人との対談で「リーダーの資質」「人の生き方」などについて、天風先生からも学んだ教訓を多く紹介されています。
では、先生と稲盛氏の接点はどこであろうか?私(吉田)が興味を持ったのはこの一点でした。天風会「千葉の会」の副代表・高山詠司氏は千葉県の盛和塾佐倉の世話人でもあるため、盛和塾の機関誌に登場する稲盛氏の発言記録を送ってくださったので、これを参考に検証したいと思います。
稲盛和夫(京セラ名誉会長) 2001年3月「私の履歴書」掲載
1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の二男として生まれる。1955年(昭和30年)、鹿児島県立(現・国立)大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風(しょうふう)工業に入社。3年後退社し、京都セラミック(株)を8人の同志で設立。以後、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者、公益財団法人稲盛財団理事長、日本航空名誉会長となり、名経営者として高く評価されている。
心の持ち方の気づき:稲盛氏は前掲の「私の履歴書」にも、機関誌「盛和塾61号」にも書いていますが、13歳のときに、肺湿潤という結核の初期病気に罹りました。そのときの結核は不治の病とされたので、本人は死ぬかもしれないと思いすっかり意気消沈します。熱に浮かされて病床に臥せっていると、お隣の奥さんが、「生長の家」の主催者・谷口雅春氏の「生命の実相」を読みなさいと貸してくれた。この本の中に「心に描いたとおりのことが、あなたの周辺に現象として現れます。心に呼ばないものは、決してあなたの周辺に現象として現れることはないのです」と書かれていた。氏はそのとき子供ながら思い当たることがあった。結核の叔父を身近に看病する父や兄はそんなに簡単にうつるものかと無頓着だったが、自分だけが結核を気にする心があった。この心が災いを呼び込んでしまったのではないか。そして、この本は「心のありようを考えるきっかけ」を与えてくれたと感謝している。
同じ「盛和塾61号」(2004,10)に京セラを設立(1959:s34)して間もないころ、松下幸之助氏による「ダム式経営」の講演を聴いても、「心の持ち方=思い」の大切さに気付きます。「ダム式経営」とは経営がうまくいっているときに、ダムのように利益を貯め、必要なときにそれを使っていくというもの。ダムを造って貯めこみ、調節し、常に一定のお金を使っていくようなダム式経営をすべきだという言葉に電撃が走ったように衝撃を感じた。そして、「まず心に思う」ことがいかに大事かとその時に改めて気づいたと書いている。
そして「しばらくして、私は中村天風さんの哲学に触れるようになりました。天風さんも心に思うことが大事だと、繰り返し説いておられました。『自分の未来に、決して悲観的な思いを持ってはいけません。自分には明るく、幸運に恵まれたすばらしい未来が必ずあるのだと信じて努力をしなさい』という天風さんの言葉に触れたとき、心に思うことが大事なのだと、私はさらに確信を深めました」と。そして京セラの経営12か条の3番目に「強烈な願望を心に抱く」を入れたのでした。
機関誌「盛和塾76号」(2007.2)には塾長講和第68回が掲載されていますが、稲盛氏が京セラの社長(1966:S41)になったある年の新年、会社の初出勤の日、集まった社員にその年の方針として、「新しき計画の成就は只不屈不撓(ふくつふとう)の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」というスローガンを掲げた。実はこれは、中村天風さんの言葉からお借りしたものです。この言葉を毛筆でしたため、社内に貼りだしましたとある。
また機関誌「盛和塾86号」には北海道の知床の会場で、ある塾生が塾長・稲盛氏に「どんな本を読めばいいですか」と訊ねたところ「中村天風師の『研心抄』がいいね」言われた。これを熟読していた堀口塾生は横線や二本線を引いたり、四角で囲んだり、丸や二重丸を付けたこの「本」を塾長に見せた。すると塾長は「この読み方はすばらしい。本というのはこうやって読むものです。こういう心に刷り込むような読み方で初めて著者の真意がつかめて身につくものです」と褒めてくれたと記す。そして堀口塾生は、この「本」から「利他を根本とする思いやり」を学び、「経営とは社員を守ること」に行きついたと語っている。
機関誌「盛和塾93号」(2009.8)では塾長講和第89回が掲載されている。サブタイトルは「中村天風に学ぶ強い力」である。稲盛氏はここで、「特に心の問題で我々に教えを示してくれたのは、中村天風さんというヨガの修業をされた哲人です」と紹介し、次のように語ります。「天風さんは、人間の心というのは、もともとは尊く、強く、正しく、清いものだと言っています。こころがどういう状態であるかによって、その人の人生、その人の周辺に起こる現象がすべて決まってくるのですと。だから「苦しくとも、決して悲観的な思いを抱いてはならない」「不況のときこそ、積極的な強い心を持つ」「善き思いを『強く一筋に』抱けば、道は必ず開ける」、そして「「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」と続けた。最後に、稲盛氏は、「精神論のように聞こえるかもしれませんが、天風さんの例にもあらわれているように、心のありようによって、人生や経営が大きく変わっていくのだということを私は本当に強く感じています」と締めくくられている。
機関誌「盛和塾105号」(2011.4)では塾長講和第100回が掲載されている。タイトルは「日本航空の再建、および日本の再生について」である。この中で会社更生法適用申請を行った倒産企業再生の足跡を語っています。社員には「倒産した企業」として危機意識を持ち、「再建する」という強い熱意・願望・使命感を持ってもらうよう要請する。そのためには「採算意識を持つ」「善悪を判断基準にする」、そして「不屈不撓の一心で計画を成就させる」として、JAL社内のスローガンに「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く強く一筋に」をいたるところに掲示させました。まず、強い熱意と願望の心の持ち方が大事なのでこれを掲げ、次いで「採算(原価)意識」を持たせるために、部門別の採算を細かく見る経営管理手法(アメーバ経営)を採り入れた。これは航空路線の営業や仕入れなど利益部門だけでなく、研究開発や管理部門にいたるまですべてに適用するもので採算の意識改革に効果を上げた。などなどが述べられています。
天風先生との出会い:私(吉田)は、これほどまで天風先生を敬愛してくださる稲盛氏と天風先生の出会いの原点はどこにあるのかを考えてみました。それはきっとこの時点ではないかと想像するのです。それは「私の履歴書」に書かれている次の箇所です。
1959年(昭和34年)、松風工業から行動を共にした同志8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、結束のため8名の血判状にも署名した。そしてわき目もふらずに働き続けて1年目から黒字決算を果たす。
ところが創業3年目の1961年(昭和36年)、前の年に入った高卒社員11人が突然、「定期昇給とボーナス保証」の要求書を提出してきた。そして「この要求を認めてくれなければみんな辞めます」という。
小さな会社であり、彼らのまじめな勤務ぶりを稲盛氏は知っていた。就業時間は朝8時から午後4時45分となっていたが、実際には深夜まで残業が日常化していた。松風工業以来のメンバーは徹夜もいとわずという社員ばかりで時間の観念がなかった。
ただ、中卒の社員は夜間高校に通うため定時に帰らせる。それが高卒になると、当然のように何時間でも上司に付き合わされ、時には日曜まで駆り出される。そんな不満が積み重なっていたようだ。
稲盛氏がいくら説得しても、「毎年の賃上げは何パーセント、ボーナスは何カ月と約束してくれなければ辞めるだけだ」と譲らない。
そこで幹部とひざを突き合わせての交渉が3日間にも及んだ。氏は「来年の賃上げは何パーセントというのは簡単だ。でも実現できなければウソをつくことになる。いい加減なことは言いたくない」と誠意を込めて説得する。すると一人、そして一人とうなずき、最後に一人だけ残った。「男の意地だ」となお渋る一人に、「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺していい」と迫ると、氏の手を取って泣き出した。
この時、氏は初めて会社責任の重さと経営責任の永続性に気付いたのだった。それを次のように書いている。
そもそも創業の狙いは自分の技術を世に問うことであった。この反乱に出会って私の考えは大きく変わった。こんなささやかな会社でも、若い社員は一生を託そうとしている。田舎の両親の面倒をろくにみられんのに、社員の面倒は一生みなくてはいけない。これが会社を経営するということなのか。
この体験からこんな経営理念を掲げるようになった。「全従業員の物心両面の幸福を追求する」。私の理想実現を目指した会社から全社員の会社になった。生涯かけて追及する理念として、この後にこう付け加えた。「人類、社会の進歩発展に貢献すること」と。
この時が稲盛氏にとっていちばん経営のピンチであった。この話し合いが決裂し、若い社員が大量に退職しても困るし、労働組合を結成し組織化して経営者側といつも対立する関係になっても、企業の順調な発展は阻害される。これを誠意と粘り強い説得とで相互の信頼関係を築きピンチを乗り越えた。これは稲盛氏の人徳・人格が若い彼らに信頼感を植え付けたことになり、以後の企業発展の基礎となるものとなった。
この5年後の1966(S41)年に稲盛氏は社長に就任されるが、その間「全従業員の物心両面の幸福を追求する」の経営理念はゆるがない。そしていろいろと哲学書、宗教書、経営書など人生や経営にプラスする本を読み、経営講演などにも時間を見つけて出かけられたと思う。
一方、天風会は1947(S22)に天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」を、翌48年に、心のあり方を説いた「研心抄」を、そして翌49年に、身体のあり方を説いた「錬身抄」を合わせ、3部作として出版している。そして外部活動として、天風先生(79歳)は1955(S30)9月に京都・黒谷本山にて補正行修会を開いたが、それ以前から神戸、大阪、京都地域には毎月講演会を持っておられた。1962(S37)には天風会は公益性が認められ「財団法人」となり、「真理践行誦句集」も刊行されたため、いっそう講演活動も活発化した。
これらの天風会活動から、稲盛氏は社長になる前後に「真人生の探究」「研心抄」「誦句集」を熟読されたものと思われる。ここに出てくる「不屈不撓の一心にあり」は「研心抄」および「真理行修誦句集」の「自己陶冶」に掲載されており、「新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり」と書かれている。氏は「研心抄」をよく読まれ、黒の「誦句集」も緑の「真理行修誦句集」も身近において何度も復誦され経営の血肉にされたと容易に想像されます。
これがのちに「京セラフィロソフィー集」に結実する。「人間として何が正しいのかで判断する」「公正、公平、誠意、正義、勇気、愛情、謙虚な心を大切にする」などを決めた。その後もKDDIなど新しい事業に取り組む前に、「国民の利益のためにという使命感に一点の曇りもないか」「動機善なりや、私心なかりしか」を自分に厳しく問い詰めて着手し、多くの人の支持や協力を得て、事業成功に導いたのでした。
最近の著書「心。」をサンマーク出版から出された。「すべては“心”に始まり、”心“に終わる」という見出しで、いまでも「人生は心の持ち方が一番大切」と最重要視されている方である。了