美女と才女
水谷八重子  
初代:新派女優
生年月日1905年8月01日
私の履歴書  掲載日1970年3月26日
執筆時年齢64 歳

1905(M38)― 1979年 東京神楽坂生まれ
・芸術座で、新劇の子役として出発、のち新派に加わる。花柳章太郎亡きあと新派を支え、演劇界を代表する女優の一人となった。
・八重子が6歳のとき時計商の父が死に、姉の嫁ぎ先水谷竹紫(恩人)宅に母と一緒に移る。竹紫は早稲田の坪内逍遥先生に師事していた。その関係で島村抱月、松井須磨子との付き合いも持っていた。
・久保田万太郎から彼女の半世紀本のタイトル「芸・ゆめ・いのち」を贈られる。その時の付け一句
 ―しょせん芸もゆめもいのちも時雨かな-
大正から昭和にかけての女優。新劇から新派に入り、戦後は新派の屋台骨を支える大黒柱として日本の演劇界に重きをなした。
1937年(昭和12年)には十四代目守田勘彌と結婚し、2年後に一人娘の好重(のちの水谷良重(二代目水谷八重子)をもうけている。

小説家であり劇作家の川口松太郎は芸能界を良く知った大御所であるが、水谷八重子について次のように書いている。
水谷は不思議な女優でいつまで経っても舞台に歳を取らせず、花柳章太郎が亡くなった後はどうも亭主役者に恵まれない。しかし、それにしても驚くのは八重子の若さだ。どんなに若い亭主を持っても釣り合わぬと思ったことがない。これは何とも驚くべき奇跡だ。女優の歴史が始まって以来こんな人は他にいない。呆れるというより水谷君の精進の良さが今日の彼女をつくっているのだと思う。若いときには恋愛もし、結婚もし、良重を生んでいるがそれっきりで浮いた話はほとんどない。

1.松井須磨子との共演
12歳のとき、帝国劇場の「アンナ・カレーニナ」のセルジー役で出演した。親子別離の場面で、涙滂沱の松井さんが私の頬に顔を当て、静かに立って裏庭へのドアを開け、やお屋づくりの斜面を登って行く。奥深く飾った遠景に、汽笛の効果音よろしく、白煙が流れる。そのアンナのうしろ姿が今でも私の瞼に残って居る。
 松井さんの部屋に挨拶に行くと「はい、ご褒美・・」と、用意のお菓子を私に与えた。それと、中山晋平さんからけいこ場で、ひざにのってはピアノを弾いてもらい、童謡を教わった記憶が消えない。

2.花柳章太郎との秘話 (花柳とは「鶴八鶴次郎」「残菊物語」などで名コンビだった)
芸術座の「両国の秋」初日で起こったおかしい秘話を紹介しよう。花柳章太郎さんの若い職人と、私の町娘が恋仲だった。二人が長火鉢を挟んで向かい合う場で、けいこ中にそんなことしなかったのに、私がそでで「の」の字を書いた手をねこ板の上に置くと、花柳さんが熱っぽく握りしめた。ハッと驚いた私は、その手を引っ込めた。幕が下りたところで、花柳さん、こう言うのである。
「八重ちゃん、だめだよ。君の役は僕に惚れているんだろう。握った手を払われちゃ芝居ができないじゃないか」 「だって、けいこで何もしなかったじゃないの。私、びっくりしちゃった」 「初日にどんなイキが出るかわからない。それが芝居のおもしろさだよ」。私は返す言葉がなかった。

3.守田勘彌との結婚
守田とは、子ども時分からの遊び仲間だったし、明るく素直な性格の持ち主として、気兼ねなく、楽屋で語る機会が多かった。歌舞伎から芸を学びたいと願う私とて、不安になると「どう、これでいいの?」と、一番訊きやすいのは守田であった。先方もまた、世話好きのゆえ、私のダメを拾っては、よく助言してくれた。
 転機は、恩人でもある義兄竹紫を失ったあと、芸術座を背負って立つことになった。亡くなった義兄の恩恵が身にしみてわかり、女に生まれた孤独感に痛く胸を締め付けられる日があった。こんな時、真っ先に守田が駆けつけてくれた。人情もろくて世話好きときているから、何かと私を慰め、励ましもしてくれた。この年、私も30歳になっていた。箱入り娘で成長した私の身辺には、義兄の逝去後、守田の慰撫と忠言が身にこたえ、愛情が醸し出されるようになった。姉と語り合って松竹の大谷社長に相談とお願いに行くと、賛成してくれ結婚の媒酌役を買ってくださった。

水谷 八重子(みずたに やえこ)は、新派女優名跡の一つ。

  • 二代目 水谷八重子
    • 初代の娘、1939年– 。 2015年時点での当代。二代目襲名以前は水谷良重として活動。
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