掲載時肩書 | 日本学士院会員 |
---|---|
掲載期間 | 1962/01/01〜1962/01/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1888/05/04 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應予 大学部政治学科 |
入社 | 助手 |
配偶者 | 友・水上瀧 太郎・妹 |
主な仕事 | 諭吉翁と暮す、三田文学、米、欧州留学3年、教授、塾長、「近世社会主義思想史」、木曜会 |
恩師・恩人 | 父も恩師:福澤先生 |
人脈 | 松下末三郎、沢木四方吉、岩波茂雄、高橋誠一郎、工学部(藤原銀次郎)、堀内輝美、槇智雄、望月軍四郎、安倍能成 |
備考 | 父も塾長、母は御殿医娘 |
1888年(明治21年)5月4日 – 1966年(昭和41年)5月11日)は東京生まれ。経済学者(経済学博士)。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育の責任者となる。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長。父は慶應義塾長(1887年(明治20年) – 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ のぶきち)。父が福澤諭吉の直接の門下生だった縁で晩年の福澤に目をかけてもらい、幼少時に福澤邸に一家が同居していた時期もあった。
1.福沢諭吉先生の思い出
明治27年(1984)12月に父が亡くなり、その後1年足らず福沢先生のお世話になり、その邸内の一棟に暫く住んでいました。同じ邸内にいたのですから、先生の様々の姿は見ています。その年63歳であった先生が、毎朝「ウン、ウン」と声をかけて米を搗く、その掛け声も臼の響きも、毎日ききました。先生が得意の居合を抜き、頭上に白刃をふり回すことを繰り返すのを見たことがある。夏のある日、先生と愛孫の7歳の中村壮吉(先生の長女の二男、父を失う)と8歳の私とは、庭の芝生の上にしゃがんでいました(先生はゆかたを着ていたと思う)。私の向う脛を、尻に縞のあるやぶ蚊が刺している。どうして捕えようかと思っていると、先生の大きな掌が私の脛をたたいた。血が散った。「信さん、それ」と、先生は蚊を摘まんで私に見せた。
2.三田文学と永井荷風
明治43年(1910)、「三田文学」を発刊した。これは慶応の先輩に、塾の文科を盛んにしてもっと文学者を養成すべきだ、との議が起こり、結局、森鴎外に相談して永井荷風を教授として招聘し、また永井を主幹として雑誌を出すことになったのだと聞いています。そうして、この機運に乗じて水上瀧太郎、久保田万太郎、佐藤春夫、松本泰等の作家が慶応の文壇から登場することになりました。
永井荷風は晩年人を疑い、世に背く性情がいよいよ昂じて、噂によれば数千万という預金を貯えながら、看護する人もない病床に窮死したと伝えられましたが、慶応義塾に招かれた当時は、フランス帰り間もない時であって、長身の体によく似合った洋装は颯爽たるものであり、しかもその講義も十分準備してきたノートを低い声で読む、という極めて真面目なものでありました。
3.木曜会の心配
私は昭和8年(1933)に塾長になりましたが、毎月第一木曜日の晩に私の宅に集まる雑談会をもっていました。もとは教授時代の私が自分のゼミのメンバーと火鉢を囲んで、研究会の話の続きをする小さな談話会だったのが、だんだん卒業生も集まるようになり、更に私が塾長となってからは、新入学の大学予科生も参加するようになり、それに有名な夏目漱石の宅の集まりが暗示となってか、木曜会と呼ばれるようになった。
その頃、私は品川の御殿山に住んでおり、階下の八畳の一間が会場だったが、到頭この八畳に28人つめ込むというレコードを作ってしまった。それで私も考えて、増築に決し、2階に八畳と十畳二間ぶち抜ける座敷を用意しましたが、塾長になってから、客の数は急増して、遂にそこに60人以上つめ込むレコードを作ってしまった。心配して建築技師に尋ねると、大丈夫ですが、全員が一度に立ち上がると心配だと。
4.池田成彬さんを囲む食事会
昭和17年(1942)の早春、西園寺公望の秘書である原田熊雄君の発案で、池田成彬さんを招待して食事会をすることになった。集まった主客は吉田茂氏、有田八郎氏その他合わせて10人ばかり。その他に近衛文麿、米内光政氏も参加するはずであったが、差支えがあって出てこられなくなった。原田は食膳の挨拶で、「今日は一流のシェフの料理ですが、今日は二流の相客でご辛抱ください。これは前菜です。この次はホントの料理を出します」と言った。「二流」の相客たちは哄笑した。吉田茂氏と私は初対面で会った。同氏もその夜の「二流」の客の一人だったのである。
5.焼夷弾で重傷を負う
私は昭和8年(1933)に慶応の塾長に選ばれ、同12年(1937)に再選され、同16年(1941)に三選されましたが、再選された年に日華事変、三選された年に太平洋戦争という次第ですから、結局大学総長として平和を楽しむことは余りできなかった勘定になります。
そうしているうち、昭和20年(1945)5月25日の空襲で、三田の慶応は大半が焼け、私は慶応裏の三田綱町の自宅で、焼夷爆弾のため重傷を負い、慶応病院に担ぎ込まれて、終戦もそこで迎え、12月まで寝ているという始末になりました。
私の塾長任期は昭和20年11月で満了でしたが、終戦時の混乱で少し延び、22年の1月に至って離任しました。
古典派経済学 | |
---|---|
戦前の肖像 | |
生誕 | 1888年5月4日 日本 東京府東京市芝区 |
死没 | 1966年5月11日(78歳没) |
国籍 | 日本 |
研究機関 | 帝国学士院会員(1943年) |
研究分野 | リカードの経済理論 |
母校 | 慶應義塾大学部政治科卒業 |
影響を 受けた人物 | 福田徳三 堀江帰一 |
論敵 | 河上肇 櫛田民蔵 |
影響を 与えた人物 | 継宮明仁親王 寺尾琢磨 |
実績 | 自由主義の立場から共産主義及びマルクス経済学を研究した上で合理的な批判をしたこと。 |
受賞 | 人文学名誉博士号(1954年、コロンビア大学) 文化勲章(1959年) 名誉都民(1965年) 正三位(1966年) 野球殿堂(1976年) |
小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年(明治21年)5月4日 - 1966年(昭和41年)5月11日)は、日本の経済学者(経済学博士)。位階は正三位。
東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育の責任者となる。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長。日本聖公会のクリスチャン[1]。野球殿堂入り[2]。父は慶應義塾長(1887年(明治20年) - 1890年(明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ のぶきち)。