佐藤春夫 さとう はるお

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1956/07/11〜1956/07/18
出身地和歌山県
生年月日1892/04/09
掲載回数8 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶應予
入社
配偶者記載なし
主な仕事中学2年停学、先生に辞職勧告、「田園の憂鬱」
恩師・恩人
人脈堀口大学、与謝野寛、生田長江、石井柏亭、永井荷風
備考父医師
論評

1892年(明治25年)4月9日 – 1964年(昭和39年)5月6日)は和歌山県生まれ。近代日本の詩人・作家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。明治期には大逆事件の影響を受けて、思想的な傾向を示す「傾向詩」を多く手がけるが、大正に入って、もっぱら小説家として生きることを目指す。第二次大戦中は、文学者として従軍し、戦争を賛美するかのような詩を残す。戦後は、B級戦犯に問われている知人などを弁護した。俗に門弟三千人といわれ、その門人もまた井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、龍胆寺雄、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作安岡章太郎、古山高麗雄など、一流の作家になった者が多かった。また、芥川賞の選考をめぐる太宰との確執はよく知られている。

1.父の教育
父の病院は町のほぼ中央にある丹鶴城のお堀に面したところにあった。丹鶴城は紀州徳川氏の付家老の一人水野氏(3万6千石)の居城で景色の優れた城である。父は庭前に来る小鳥やそのあたりの植物などについて博物の知識を与え、またわたくしに四季の風物に対する観方を教えてくれた。眼前の教育ばかりでなく、時々は自分で私を引き連れ、諸方に教材を求めて四季折々の趣を教えた。父はもともと文学趣味の人で、その頃は特に俳諧にこっていたのである。

2.無期停学に処せられる
新宮中学の4年級の暑中休暇前、町の有志が与謝野寛、生田長江、石井柏亭の3先生を招聘して文芸講演会を開催した。7月の夜6時半では早すぎたが珍しいから聴衆が早くから詰めかけて開会を促すが、柏亭先生はビールの酔いが顔に出ていると悠然と構え、開会の辞だけでは間が持てなくなった。
 そこで司会者は居合わせたわたくしに何か一言しゃべれと扇動した。聴衆の怒号を鎮めるために誰か演壇に立たねばならぬ、君なら演壇に行きさえすればきっと何か話が出きると、日ごろのおしゃべりを見込まれてはのっぴきならぬ、押し問答は面倒くさいとばかり無思慮に登壇したのが16歳の軽挙妄動であった。
 そのころ、世上誤解の種になっていた自然主義文学の解説を試み、「一切の社会制度の虚偽を排し百般の因習と世俗的権威を無視した虚無感に立って天真のままの人間性と人間生活とをみようというのが自然主義の文学論である」と生意気な公式論の受売りを20分かそこらしゃべった。しゃべる奴の訥弁に加えて、聞いた奴が低能と来たから、自然主義文学者の主張だと紹介したのを、そっくりわたくしの思想信条と受取り、そんな虚無主義の生徒を教育したのは学校の罪だとの非難を校長に寄せた小学校教員がいた。
 それを知らないで、暑中休暇に京都の姉のところに行って歯の治療をして帰ってみると、わたくしは無期停学に処せられていたのだった。

3.反論で先生の総辞職を勧告
この処分のあと、法学士や社会主義青年らが思想圧迫の校長排斥の運動がおこり、校舎の一部を放火で焼失させる事件が起きた。
 電報で呼び出されて行くと、学校では教頭がわたくしを放火の元凶扱い、策を授けて置いて自分は東京に逃げていたとい風説があるという。そんなものがあるならその風説の出所をまず調べたか、そこから確かな証拠を上げてから僕をしらべろ、いきなり僕では順序が違うと、まず一本やり込めた。すると放火事件は警察へ一任するが、校内でそれだけの統率力のある生徒はお前以外にないという。名誉な話だ。
 僕を休校の盟主に仕立てたいなら何時でも引き受けるが、大の先生10人いて一人の生徒の統率力に及ばなかったでは世間がすむまい。「先生方総辞職をなさいますか」と罪の覚えも無くすでに退学を決意した身はふてぶてしく強かった。

佐藤 春夫
(さとう はるお)
ペンネーム 佐藤 潮鳴
沙塔子
誕生 1892年4月9日
和歌山県の旗和歌山県東牟婁郡新宮町
(現・新宮市
死没 (1964-05-06) 1964年5月6日(72歳没)
日本の旗 日本東京都文京区関口
墓地 日本の旗 日本・京都知恩院文京区伝通院
職業 小説家詩人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学部文学科中退
ジャンル 小説

随筆
翻訳
短歌
文学活動 主知主義耽美派芸術詩派
代表作 『西班牙犬の家』(1914年、小説)
田園の憂鬱』(1919年、小説)
殉情詩集』(1921年、詩集)
『都会の憂鬱』(1922年、小説)
『退屈読本』(1926年、随筆集)
車塵集』(1929年、訳詩集)
晶子曼陀羅』(1954年、小説)
主な受賞歴 読売文学賞(1953年・1955年)
文化勲章(1960年)
従三位・賜銀杯一組(1964年、没時叙位下賜)
デビュー作 『風』(1908年)
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紀伊勝浦駅前の歌碑
ゆかし潟の歌碑
佐藤春夫記念館和室
佐藤春夫(大正時代)

佐藤 春夫(さとう はるお、1892年明治25年)4月9日 - 1964年昭和39年)5月6日)は、近代日本詩人小説家。艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論随筆評伝作品童話戯曲和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和中期まで旺盛に活動した。筆名潮鳴沙塔子雅号能火野人と称した。初代新宮市名誉市民日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

生家は医家。中学時代から文学好きで、文芸誌「スバル」に詩歌を投稿した。永井荷風を慕い慶應義塾に入学。生田長江に師事。与謝野鉄幹晶子の東京新詩社に入った。

『西班牙犬の家』(1917年)などで認められ、『田園の憂鬱』(1917年)や『都会の憂鬱』(1922年)で作家的地位を確立。この間谷崎潤一郎との親交、谷崎夫人をめぐっての、潤一郎との絶交の中で『殉情詩集』(1921年)などが生まれた。

戦後は『晶子曼陀羅』(1954年)など、文人の伝記小説や随筆を書いた。1964年、自宅でのラジオの録音中に倒れ、心筋梗塞のために死去。

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