掲載時肩書 | モンベル創業者 |
---|---|
掲載期間 | 2024/11/01〜2024/11/30 |
出身地 | 大阪府堺 |
生年月日 | 1947/07/31 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | |
入社 | スポーツ用品店 |
配偶者 | 高校時代の同級生 |
主な仕事 | アイガー北壁、マッターホルン(21歳)、丸正産業、28歳独立、軽量・小型寝袋、カヤック、チャレンジアワード創設、世界の激流カヤック下り(35歳)、モンベルクラブ、「岳人」、大学で講演行脚 |
恩師・恩人 | 副田欽一郎、麻植正弘 |
人脈 | 中谷三次、養老孟司、福岡伸一、大谷映芳、渡辺貞夫、伊住政和、青柳貴史、竹田津実、C・W・二コル、椎名誠、岩合光昭、木村大作 |
備考 | 社名「MONTBELL(E)」:美しい山(仏語) |
氏はプロ級の登山歴と激流下りのカヤック歴を持つアウトドア派から経営者として名を成した稀有な人であった。スキーは猪谷千春(1995.3)、登山では三浦雄一郎(2006.9)、今井通子(2024.2)氏が登場している。氏は「登山」と「経営」には共通点があるといい、登山家は勇敢で命知らずと思われるかもしれないが、実は怖がりで、先々のことを心配して準備する。リスクマネジメントという意味では経営も同様だと述べている。
1.アイガー北壁とマッターホルン登頂(21歳)
冬の屏風岩でザイルを結び合った中谷三次とは、1969年6月、横浜からナホトカに渡り、シベリア鉄道で欧州に向かった。7月21日午前2時、暗闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りに北壁の取りつき点に向かい、いよいよ標高差1800mの大岩壁に挑む。翌朝、観天望気(空を見て天気を予測する)で登り続けることを決意した。荷物を1gでも軽くして一刻も早く登る切るために退却用のロープや食料、カメラは置いて行くことにした。映画「アイガー北壁」遭難の舞台となった「神々のトラバース」を越え「白い蜘蛛」の雪壁にさしかかったとき、先頭を行く中谷を岩雪崩が襲った。「手を隠せ!」。私は怒鳴った。中谷は突き刺したピッケルを握って必死で耐えた。ザイルで結んだ二人の距離は約20m。落石がザイルを直撃して、あわや切断される寸前だった。
難所「頂上への割れ目」を抜けて最後の氷壁を登り切ったら頂上だった。狭い雪稜の上に立ち、見渡す限りの山並みの先にマッターホルンの頂を見た。アイガー北壁の登攀に成功した二人は、次の目標マッターホルンに向かった。登攀の途中、少なからず危うい場面にも遭遇したが、幸い一夜のビバーグで登頂に成功することができた。期せずして我々は、1年のうちに2つの北壁を登った最初のパーティーとなった。
2.独立は28歳
商社・丸正産業に就職し、登山経験を生かした新素材開発を担当させてもらったが、商品化は難しかった。商品開発の決定権が自分にないことへのもどかしさが募った。28歳の誕生日、1975年7月31日付で丸正産業を退職した。翌8月1日、大阪市西区の雑居ビルの一室で株式会社モンベルを創業した。わずか7坪の小さなオフィスだった。私の独立を知って大阪あなほり会の真崎文明と増尾幸子が、在職していた会社を辞めて創業メンバーに加わってくれた。 社名のモンベルは真崎と考えて決めた。MONTBELLの最後にEを付ければフランス語で「美しい山」を意味する。
3.最初のヒット商品
モンベル最初のヒット商品開発のきっかけになったのは丸正産業の上司・麻植(おえ)正弘さんがくれた新素材の情報だった。米国デュポン社が開発したダクロンホロフィルⅡという中空の化学繊維である。軽くて暖かく、濡れてもすぐに乾く。寝袋の中綿としては画期的な素材だ。当時、暖かく軽量でコンパクトになるダウンの寝袋は高価で庶民には高嶺の花だった。一方、化学繊維の中綿は安価だが重くてかさばり、持ち運びが不便だった。
ところが、試作品を大阪市の登山用品専門問屋に持ち込むと、「こんな小さいのに価格が高いのはおかしい」と取り扱ってもらえなかった。そこで仕方なく東京の問屋を訪ねて性能を説明すると、「わかりました。うちで扱わせてもらいます」と、一挙に2000個の注文をもらった。この新しい寝袋は米国デュポン社の知名度を追い風に登山業界に大きな反響を巻き起こした。
4.カヤックとロッククライミングの共通点
カヤックを始めたのはこれも丸正産業の上司・麻植正弘さんから「面白いからやってみないか」と誘われた。場所は琵琶湖から流れる瀬田川だ。艇を浮かべ、見よう見まねにパドルを漕ぎだした。流れは見た目以上に複雑で、転ばないようバランスをとらなければならない。目の高さで水面が流れていく感覚が新鮮だった。初心者の段階で出場した第3回関西ワイルド・ウォーター競技大会でまさかの優勝をしてしまった。いわゆるビギナーズラックである。すっかりカヤックの面白さにはまってしまった。当時、カヤック人口は少なく、新たな可能性を予感した。多くの仲間を危険な山で失った喪失感もあり、ここに新しい自分の居場所を見つけた気がした。カヤックとロッククライミングには共通点があるように思えた。難しい瀬を越える時、一瞬の判断力と決断力が求められる。そして一歩踏み出せば後戻りはできない。クライマーたちがカヤックを志向する感性が理解できた。「昔六甲、今琵琶湖」。高校時代は毎週のように六甲山のロックガーデンに通い、今は琵琶湖から流れる瀬田川に通っている。そんな私を妻が呆れてそう言い表した。
5.海外進出
創業3年の78年の夏、商品サンプルを携えて西ドイツのケルンで開催されていた国際的なスポーツ用品の展示会を視察した。その後、ミュンヘンの老舗登山用品店「シュースタ」を訪ねた。ここは私がアイガー北壁を登るとき装備を買い揃えた店でもある。店員に「日本から商談に来た」と告げると、役員室に案内された。部屋に入ると初老の紳士が迎えてくれた。「ダクロンホロフィルⅡ」の寝袋を広げて、「私はアイガー北壁を登った。私の作った寝袋を買っていただきたい」と片言のドイツ語で告げた。
紳士の顔が少し緩んだ。「北壁に登ったのか」。紳士は、そう言って寝袋を手に取ってくれた。彼の名はケレン・スぺーガー。ヒマラヤの8000m峰にも登頂した登山家だった。製品を丁寧に見た上で「検討させてもらうよ」とやさしく返答してくれた。朗報が届いたのはその年のクリスマスイブだった。寝袋100個と防寒衣料などの注文書が送られてきた。この後、1980年には米国のアウトドア衣料メーカー、パタゴニアの創業者、イボン・シュイナード氏と出合った。彼はヨセミテ渓谷などの大岩壁を初登攀した著名な登山家でもあった。そのため、30分足らずの会話だったが、意気投合した。この交流からも新しい海外ビジネスが広まった。
6.阪神大震災でアウトドア義援隊を結成
1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災が発生した。堺市の自宅で経験したことのない強い揺れで目を覚ました。立ち上がることができず、家具が倒れてくるのを足で支えようと身構えた。幸い、家屋に大きな被害はなかった。そんな時、神戸に住む麻植正弘さんから電話があった。家の屋根が壊れたのでブルーシートが欲しいという。その時点では、まだ電話が通じていた。ピックアップトラックに息子らを乗せ、ブルーシートや水を調達して現地に向かった。
武庫川の橋を渡った途端、街並みが一変した。倒壊した家屋からはガスの匂いが充満して、まるで爆撃を受けた戦場のような風景だった。麻植さんのお母さんのご遺体を収容する場所を探したが、どこもいっぱいで、ようやく診療所の建物を開放した仮の安置所にお連れした。室内には、布切れ一枚掛けられていない多くのご遺体が並べられていた。せめてご遺体を寝袋に入れて差し上げようと思いついた。しかし、家を失った人たちが路上で瓦礫を燃やして寒さをしのいでいる姿を見て、寝袋は「生き残った方々に使ってもらおう」と考えを変えた。
会社の業務を一旦停止し、支援に専念することを決断した。早速、倉庫にあった全ての寝袋2000個と500張のテントを被災地に運び込んだ。しかし、我々にできる支援には限界がある。私は支援活動を「アウトドア義援隊」と名付けて、知人や企業に被災地支援を呼びかける文書をファックスで送信した。「人=ボランティア、物=義援物資、金=義援金」のいずれかを協力して欲しいと訴えた。すぐに全国各地から協力を申し出る返信があった。インターネットのない時代、素早い反応に私は感銘した。
その後、新潟県中越地震など頻繁に起こる災害に対してアウトドア義援隊の活動が引き継がれていった。そして2011年3月、日本列島を揺るがす「東日本大震災」が発生した。震災では宮城県石巻市立大川小学校の多くの児童が津波の犠牲になった。「ライフジャケットを着用していれば救えたかもしれない」と考えた私は、いざという時はカバーを外して着用できるライフジャケットを開発し、自治体に寄贈することにした。
たつの いさむ 辰野 勇 | |
---|---|
生誕 | 1947年7月31日(77歳) 大阪府堺市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 大阪府立和泉高等学校 |
職業 | モンベル会長 |
著名な実績 | アイガー北壁の登頂で世界最年少(1969年) |
辰野 勇(たつの いさむ、1947年 - )は、日本の元登山家、冒険家、カヌーイスト。登山用品メーカーの株式会社モンベル(mont-bell)の創業者であり、現在は会長を務める[1]。大阪府堺市出身。大阪府立和泉高等学校卒業。奈良県奈良市高畑町在住[2]。