三浦雄一郎 みうら ゆういちろう

スポーツ

掲載時肩書プロスキーヤー
掲載期間2006/09/01〜2006/09/30
出身地青森県
生年月日1932/10/12
掲載回数29 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
北海道大学
学歴その他弘前高
入社助手
配偶者学長秘書
主な仕事蔵王縦走小4年、海外武者修行、富士・エレベスト初滑降、academy賞、キリマンジャロ・南極最高峰等世界7大陸最高峰スキー滑降、
恩師・恩人父101歳,赤井三郎
人脈仲代達矢、棟方志功、猪谷千春(森中1上)、橋本龍太郎、植村直己、石原慎太郎、野口健、
備考祖父・政治家、父・営林局・スキー
論評

1932年10月12日 – )は青森県出身。日本のスキー選手、登山家、獣医師。クラーク記念国際高等学校名誉校長、一般社団法人全国森林レクリエーション協会会長、特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンス理事長、北海道大学獣医学部助手、青森大学教授、日本プロスキー連盟会長、社団法人日本職業スキー教師協会顧問、日本プロモーグルスキー協会会長などを歴任した。株式会社ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、株式会社三浦雄一郎事務所代表取締役。

1.父三浦敬三
父が101歳で亡くなったのは今年(2006)1月5日だった。2003年2月、私の70歳エレベスト挑戦を目前に父は、99歳でモンブラン山系最長のバレーブランシュ氷河(全長24㎞)をスキーで踏破した。私と二人きりになると「今生の別れのつもりで滑った」と言った。
筆まめで100歳で年賀状は2,300枚。90歳過ぎて仲間をどんどん増やしていた。105歳までは滑っていたい。それが父の目標、生きがいだった。その夢の大きさ、またハードルの高さが生きる力を呼び起こしてきた。「人間、初めに夢ありき」だ。強く一歩を踏み出せば、夢は限りなく現実に近づくのだと教えられた。

2.夢はでっかく
1953年(昭和28)5月29日、ヒラリーとテンジンが人類初のエべレスト登頂に成功した。北海道大学2年の出来事だった。このニュースを耳にし、身震いした。そして「よし、それならオレは、エベレストをスキーで滑ってやる」と口走っていた。
 3年になると、第一次南極観測隊の越冬隊員の募集があった。申請用紙の目標欄に「スキーヤ―として南極横断か最高峰からのスキー滑降を」と書いた。ふざけた奴だと思われたのか一発で落とされた。南極はまだ未知の世界で私が書いたものは夢物語にしか見えなかったのだろう。

3.富士山滑降
米国の世界プロスキー選手権に参加したとき、必ず聞かれたのは「フジヤマでスキーしたか」であった。日本一のスキーヤーを自負していた私も、この質問をされるたびに宿題を忘れた小学生のような気持ちになった。滑るどころか登ったこともなかった。「日本に帰ったら必ず滑ってやる」。そして1963年(昭和38)に「富士を滑る」という映画で一先ず実現した。
 体重を含めた総量85kg重さが、最大傾斜40度で時速170km出たとき、3秒以内で時速80kmに減速できるようなパラシュートの協力を防衛庁・航空研究所にお願いした。1966年4月25日、富士の滑降に挑んだ。カリカリの雪を蹴飛ばし、吉田大沢へまっしぐら。ヘルメットを通して風のうなりが暴力的に威嚇する。九合目の最大傾斜へ突入すると時速は160km。ここで右手をグーンと伸ばすと第一パラシュートが見事に開いてくれた。
 山頂が空高く遠くに見える。シュプールは、自分の足から上へ上へと空に向かって伸びている。「やって良かった」。喜びがこみ上げる。この喜びは、競争に明け暮れたレースの勝利感とはまるで次元の違うものだ。こんなすがすがしい気持ちは生まれてこの方なかった。

4.エベレスト滑降は決死挑戦
赤井電機の赤井三郎さんの個人財産から1億9千万円もの資金援助もあり、1970年(昭和45)3月5日、隊員33人、シェルパ40人と800人のポーターという大キャラバン隊が行軍を開始した。エベレストのベースキャンプ(5,400m)までの長く遠い道のり。24日間ひたすら歩いて28日に到着した。
 サウスコルからさらに登って8000m。急斜面の氷を削って作ったテラスで、頭のてっぺんから足のつま先まで40項目の点検に1時間も要した。一枚氷の壁がクレバスめがけて落ちている。氷上にチョッと吹き付けられたような雪があるが、風が吹けば瀬戸物みたいな油氷になる。ビール瓶の上をゴマ粒が滑り落ちてくるようなものだ。転んだら助からない。
 5月6日午後1時7分。「よし、この風だ」。スタートを切った。すぐ、この滑降は生きて帰れないと感じ始めた。氷の壁は波をうって荒れ、落石が雪に食い込んでいる。6秒過ぎると180kmを超えて、200kmへ入る。その前にパラシュートだ。滑降しながら開いたパラシュートが渦巻く風に不規則によじれて体が引き込まれる。風と氷の凸凹に翻弄されて転倒した。スタート後1分40秒だったという。もう止まるすべがない絶望の氷壁だ。100%の死に向かって時が流れ始めた。約200m落ちていく。2m7cmの右足のスキーが吹っ飛んだ。
 次の瞬間、スタート前、あれにぶつかったらまずいと思っていた直径20mくらいの大きな岩がグングン近づいてくる。岩山で大きく跳ねて斜面に衝突し、時間が止まった。気が付くと、紐が切れないで体と一緒に滑ってくれた左のスキーが胸の内に横に入って、辛うじて斜面にうつぶせに張り付いている。
 生きている。夢なのか。それを確かめようと腕で雪を叩き、頭を氷にぶつけた。クレバス迄あといくらもない。ずり落ちぬように足場を固めようとしたらズルズルと再び滑り始めた。回収班が駆け付けてロープを張り、靴にアイゼンをつけてそこから脱出した。決死の2分20秒の戦いから奇跡的に生還し、喜ぶ仲間に囲まれると思わず涙が湧き出てきた。37歳だった。

5.吉田の補足(丸の内朝飯会での後日談)
「夢(目標)があるから元気になれる」と三浦氏はいう。「元気だから80歳でエベレストに昇るのではない」と。2013年5月23日、丸の内朝飯会でエベレスト登頂支援隊に1週間前まで参加していた竹岡誠治さんが、この話をしてくださった。丁度この日7:30から卓話が始まったが、この時間は三浦本隊(4人)が頂上を目指して最終アタックのときであった。最後のベースキャンプ(8500m)から山頂(8848m)までの348mを8時間かけて登っている時だという。気温は零下15度だが、零下30度の防寒靴や手袋を着けた重装備に、20kgの背嚢を担ぎ、45度の斜面を登るのは危険で苦しく、1歩あゆんでは10回呼吸する速度になる。

三浦本隊は日本人10人で、現地ネパールスタッフは19人の合計29名。本隊は医師、気象専門家、映像専門家、記録担当、通信担当、登山担当などに別れているが、登頂アタックの4人は、三浦雄一郎氏、豪太氏、倉岡氏は登山隊長、平出氏は映像担当だ。映像担当はリモコンのヘリコプターも持参し、登山状況を迫力ある空撮にする。現地スタッフは、サーダーとキッチンボーイという二人のリーダーがおり、サーダーはシェルパのリーダーでコック長は全員の料理を作る責任を持つ。本隊が現地入りしたのは3月の下旬、高山病を克服する訓練で体を慣らしながら、キャンプ1(6050)から5(8500)まで登った。これら本隊を食料や機器などを補給する役割がエベレスト登頂支援隊である。竹岡氏ら支援隊は7名(うち、女性3名)だが、現地スタッフ14名を入れると、計21人のパーティになる。彼が差し入れた高級抹茶を本隊10人は最後のベースキャンプで、粋な茶会で英気を養い出発してくれたはずという。

彼の現地取材情報によると、今回エベレスト登頂を目指す世界のパーティは20組ほどがある。年間トレッキング可能な期間は、3月~5月、9月~11月で実質4ケ月ぐらいだ。だから5月末までに天候を見ながら登らなければならない。シエルパやキッチンの日当は2000円程度、ポーターは1000円程度だが、山の高さにより運搬役を牛、ヤク、ロバ、馬などに使い分けるが、その1頭の使役料はポーターの2倍~5倍となる。今回の登頂計画プロジェクトの総予算は約2億円にもなるが、サントリーを始め8社が協賛、そして一般市民400名から約1000万円が集まったという。今年10月12日は雄一郎さんの81歳の誕生日になるが、当日15:00から17:00まで三浦豪太さんが丸の内朝飯会で、この話「大人の冒険学校:エベレスト登頂」を麹町のグリーンパレスホテルで映像を混じえて講演してくださることになっている。

三浦 雄一郎
2007年11月、東京都千代田区にて
名前
本名 三浦 雄一郎
(みうら ゆういちろう)
ラテン文字 Yūichirō Miura
基本情報
国籍 日本の旗 日本
種目 山スキー
所属 ミウラ・ドルフィンズ
生年月日 (1932-10-12) 1932年10月12日(91歳)
生誕地 日本の旗 青森県青森市
居住地 日本の旗 日本

三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう、1932年10月12日 - )は、日本スキー選手登山家獣医師青森県出身。クラーク記念国際高等学校名誉校長一般社団法人全国森林レクリエーション協会会長、特定非営利活動法人グローバル・スポーツ・アライアンス理事長、株式会社ミウラ・ドルフィンズ代表取締役、株式会社三浦雄一郎事務所代表取締役。

北海道大学獣医学部助手青森大学教授、日本プロスキー連盟会長、社団法人日本職業スキー教師協会顧問、日本プロモーグルスキー協会会長などを歴任した。

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