今井通子 いまいみちこ

スポーツ

掲載時肩書登山家
掲載期間2024/02/01〜2024/02/29
出身地東京
生年月日1942/02/01
掲載回数28 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
東京女子医科大学
学歴その他
入社母校助手
配偶者山男:高橋和之
主な仕事マッターホルン北壁、アイガー北壁、グランドジョラス北壁、ヒマラヤ(ダウラギリ連峰、エベレスト、チョ・オユ―)、白頭山、キリマンジャロ、日本山岳ガイド協会
恩師・恩人加藤滝男
人脈森安慶子、若山美子、加藤保男、近藤謙司、大蔵喜福、貫田宗男、宇都宮徳馬、毛利衛、立松和平、橋本龍太郎、谷垣禎一
備考あだ名:シャモ(軍鶏)、両親とも医師
論評

氏は登山家としては三浦雄一郎氏に次いで二人目である。医師として働く傍ら女性として世界で初めて欧州アルプスの三大北壁(マッターホルン、アイガー、グランドジョラス)登はんし、ヒマラヤでも隊長を務め、8000m級の山々をも登っている。昔なら女性でよくも危険な絶壁を登るものだ言われると思いハラハラしながら読んだ。また、医師であるご両親の氏への教育も素晴らしいと思った。

1.山の微笑み
私はいつも、山が自分に微笑んでくれるときに登ることにしている。ただし山の微笑みは、個人の力量によって違う。より多くの微笑みに会うためには、観察、集中と注意、柔軟な対応など総合力で培った行動力が必要だ。山はそんな力を磨いてくれる。山はまた、自らの手足という交通機関を駆使して行くことで、自分だけの壮大な美術館、コンサートホールへとたどり着かせてくれる。

2.マッターホルン北壁登頂(4478m)
1967年7月18日午前2時15分、若山美子さんと山小屋を出発した。北壁は、下のほうが氷壁になっている。彼女がトップで登るとき、足元の氷をピッケルでカッティングすると、氷のかけらがキラキラと輝き舞い落ちて来て、美しかった。
 1日目の夜、1畳ほどの平らな部分(テラス)でビバーグした。背後の壁にハーケンを打ち、カラビナをかけ、ザイルの長さを体が落ちない程度に固定する。テラスの氷を溶かしてお湯にし、スープや紅茶、パン、サラミソーセージなどで夕食をとった。眼下には遠く、ツェルマットの町の明かりが輝いている。町から見れば、自分は北壁の一部でしかないだろう。北壁に包まれているのが不思議で、座ったままいつしか眠りに引き込まれていった。
 7月19日の20時15分、ついに頂上に出た。緯度の高いヨーロッパの夏。夕日がまだ山を照らしていた。私の足元からは長い影が絶壁の端まで伸び、隣にも一つ、同じ影が続いていた。ほっとしたが急峻な下りを考えると、お互いに感激の涙もなかった。1967年9月、私たち一行は、無事、欧州登山を終えた。ツェルマットを離れるとき、駅前のホテルの女主人が仲間の10人ほどの女性たちと正装し、駅で私たちを見送ってくれた。「女性の地位のためにありがとう」と、ハグしてくる。女性同士がザイルをつないで登ったことを心から喜んでいることが伝わってきた。

3.マッターホルンで学んだこと
まずは山のスケールに圧倒されないこと。氷河も岩壁もとにかく大きい。1時間でどれぐらい進めるのか、登るのに何ピッチぐらいかかるのか。距離の目測が日本の山と全く違う。見た目の大きさと距離感を合わせることを身につける必要がある。そして、欧州の自然に対する技術と知識も、磨かなければいけない。

4.アイガー北壁登頂(3970m)
1969年6月、私はスイス・グリンデルワルドにいた。目の前にはアイガーがそびえる。切り立った北壁の中央部は圧巻だ。そこを逃げずに直登する、新しいルートを開拓するのが目的だった。この登はんクラブの隊長はベテランの加藤滝男氏だ。この隊のメンバーは、彼の弟で後にエベレストに春秋冬の3度、登頂した加藤保男と天野博文、根岸知、久保進、私の計6人だった。
 旅は初っ端から難航した。予定では6月中に準備を終えるはずなのに、4月に東京から送った荷物が届いていなかった。そして天候も悪かった。山に大量の雪が残っていた。7月2日からベースキャンプ(BC)の設営に入った。天候も上向き、アイガーに張り付く雪も落ちてきた。ルートを開くアタック隊員、荷物を運ぶボッカ要員、テントキーパーと食料の買い出し。この4役を分担・交代しながら、ルートづくりが本格化する。2kmのロープや大量のハーケン、カラビナなど、荷物は1トンにも及んだ。
 7月末、北壁のルート工作が9割方、出来上がった。ピークを踏むまで帰らない方式に切り替え、31日未明、BCを後にした。岩場の上で寝て、岩壁を背に食事をし、必要な装備約1トンをときに背負い、ときに滑車を使って引き上げながら、工作済みのルートをたどって上部へ移動する。岩壁の傾斜が急峻なため、空中を落下してくる落石の多さはマッターホルンの比ではない。
 8月2日、北壁の下部にあるビバーグ・サイトで荷揚げ作業中のこと。ザイルで結んだ荷物が上部に引き上げられるのを見送り、目線を下げた瞬間、ガーンと背中にショックがあった。30センチ四方ほどの黒いものが視界を横切る。その場でうずくまった。激痛だ。脊髄をやられていたら動けなくなるが、幸いだった。
 夜は巣の中のリスのように、ひしめき合って眠り、翌日はオーバーハングした壁をひたすら登る。私はメンバーの栄養管理も行っていた。3食では不足なくらい体が要求する。干しブドウやチョコレート、コンデンスミルク。すぐに栄養が取れるものをみんなが登はん中に口にする。頂上まで少し。既に10夜を超えていた。
 8月15日、山頂はもうすぐ。日は傾き、風も強くなっていた。あと何時間?山頂はまだ遠いの?今日中の登頂は無理?あきらめかけたとき、「シャモ、着いたぞ」との声。先に頂上に出ていた天野博文君は泣いていた。マッターホルン北壁では泣かなかった私だったが、大声でもらい泣きしながら最後の5mを登った。午後7時半。私はアイガーの山頂に立った。

5.グランドジョラス(4208m)登頂で結婚式
1971年6月、私は未来の夫、高橋和之(ダンプさん)ら4人の仲間とともに、羽田空港から欧州登山に向けて出発した。目指すは、グランドジョラスの北壁登はんだ。山頂でダンプさんと結婚式を挙げるのが目的だった。私自身の3大北壁完登も果たせる。ただしひと夏のうち、登れるチャンスは2,3回という。まだ雪が多く残り、登はんには向かない。シャモニー・モンブランの町に入った私たちは、その後テントで暮らし、氷河や岩壁でトレーニングをしながら、タイミングを待った。私たちは約1か月後に帰国する予定だった。
 7月14日、ついに踏み出した。つま先で立ち、胸を岩につけるようにずり上がるとき、お尻が空間に吸い込まれそうだ。他の2山に比べ、登りにくい壁だ。それでも手や足は、確実に伸びていく。初めから気持ちよく登れる壁ばかりとはかぎらない。相手になじもう。この山の魅力は、眺望だった。眼下に続く氷河が、私たちと人里を大きく隔てる。景色が私たちを自然に溶け込ませてくれていると感じた。
 山に入って4日目。この日は濃霧だった。雲行きが怪しくなり、あられも降ってきた。ようやく収まり、ホッとしたのもつかぬ間、突然ザイルがピンと張られた。両足が浮いた私は、宙づりになってしまった。大声で叫んだ。引っ張ったのは力持ちのダンプさんだ。あと5mか6mのところにテラスがあり、そこに行こうとしたとのこと。無事に着地。私は散々、怒った。
 1971年7月、私と現夫はグランドジョラスの山頂で結婚式を挙げた。ウェディングドレスも、立派な会場も、豪華なごちそうもない。披露宴は、雪洞だった。夫と私、そしてともに登った仲間3人がギリギリ座れるぐらいの広さしかない。入口に張ったツエルト1枚を隔てて、外は雪が降っている。「おめでとう」「やったぜ」。仲間の一人が、お赤飯の缶詰を用意してくれていた。ガスバーナーで氷を溶かしてお湯を沸かし、お赤飯を温める。一人一口ずつ。じっくりとかみしめる。
 登はんの際、装備はできるだけ削るのが原則だ。重ければその分、体力がそがれてしまう。なのに運び上げてくれた。感謝。感謝。翌朝、全員で記念写真も撮った。実はシャンパンまで持って来てくれていた。気圧が低いから、中身が噴き出る?気温が低すぎて全然、泡立たなかった。一口ずついただく。再度、感謝だった。霧で、視界は全く利かない。しかし四方にそびえるアルプスの山々、そして自分がいずれ登るであろう山たちは頭の中に浮かんでいた。山に抱かれ、仲間と共に祝える。山での生活をもっとも自然なものと受けとめる自分にとって、これ以上の幸せはあるだろうか。
(2つのピッケルアーチで二人が祝福される写真あり)

今井 通子(いまい みちこ、1942年2月1日[1] - )は、日本医師[1]登山家[2]ラジオパーソナリティー

和光小学校女子学院中学校・高等学校を経て、東京女子医科大学医学部を卒業後[1][3]東京女子医科大学病院に勤務[4]する傍ら、趣味の登山で女性として初めてアルプス三大北壁(マッターホルンアイガーグランド・ジョラス)の登攀に成功した[2]

東京女子医科大学泌尿器科医として在籍[4]。日本泌尿器科学会指導医・専門医[1]医学博士[1][3]。東京農業大学客員教授[3]。兵庫県立森林大学校「特任大使」[5]

2011年1月(2007年3月定年退職後、準備の後)森林医学の研究者等と共にInternational Society of Nature and Forest Medicine (INFOM) を設立[6]。地球環境と人間環境の両立を計るため国際的に森林の保全と利活用を目的とし森林の持つ生理学的効果の検証を推進。株式会社 ル・ベルソー代表取締役[1][7]

  1. ^ a b c d e f 『山は私の学校だった』中央公論新社、2003年。ISBN 4-12-204211-9。"著者紹介欄"。 
  2. ^ a b 池田理代子宮城まり子石垣綾子ほか著『わたしの少女時代』岩波書店岩波ジュニア新書 3〉1980年、17-32頁。
  3. ^ a b c 登山家の今井通子さん 過酷な行程を支えた日本の味 - 日本経済新聞”. www.nikkei.com. 2023年4月22日閲覧。
  4. ^ a b 今井 通子|パーソナリティ|ラジオNIKKEI”. ラジオNIKKEI. 2023年4月22日閲覧。
  5. ^ 兵庫県立森林大学校 学校案内(パンフレット)(PDF:3,318KB)”. 兵庫県. 2023年4月22日閲覧。
  6. ^ BOARD MEMEBRS | ABOUT US | INFOM”. www.infom.org. 2023年4月22日閲覧。
  7. ^ 厚生科学審議会科学技術部会委員名簿”. www.mhlw.go.jp. 2023年4月22日閲覧。
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