掲載時肩書 | 三菱商事会長 |
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掲載期間 | 1996/11/01〜1996/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1922/07/13 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 上智大学 |
学歴その他 | 3浪後 |
入社 | 三菱商事 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 進駐軍渉外部、マニラ、船舶部長(石油・タンカー)、BP大型商談、アヤラ提携、中国科学技術交流、靜嘉堂文庫 |
恩師・恩人 | 藤野忠次郎 |
人脈 | 菊池寛(近所),岩崎小弥太(父恩人)、永井道雄、田部文一郎、舘豊夫、野見山暁治、加茂健 |
備考 | 絵・探鳥,父:轍次(大漢和辞典),先祖:直江兼継 |
1922年7月13日 – 2013年6月23日)は東京生まれ。実業家、サッカー選手。マニラ支店長およびロンドン支店長、欧州三菱商事の副社長を務めた。1980年6月に三菱商事の取締役兼ロンドン支店長、1983年6月に常務取締役、1985年6月に副社長を歴任。1986年11月、社長(当時)の近藤健男が就任後5か月で死去したのに伴い、社長に就任した。三菱商事株式会社元特別顧問・相談役・代表取締役会長。
1.父・諸橋轍次
父轍次は1919年(大正8)から2年間、中国へ留学した。漢学ゆかりの土地を歩き、清朝の遺風を伝える学者たちと交わり、猛烈に勉強したようだ。勉強したことはカードに書き取った。カードが2000枚、3000枚と増え、父の胸に一つの考えが浮かんできた。
「カード作りに時間を費やしているのは、完全な原典によって完全な解釈をした辞典がないからだ。中国の康煕(こうき)字典には熟語がなく、佩文韻府(はいぶんいんぷ)には解釈がない。ひとつ自分でやってみようか」。父は後年、これが「大漢和辞典」編纂の直接の動機だと記している。この辞典は13巻1万5千頁。編纂には昭和の初めから35年かかっている。
「漢学者にならなければ数学者になっていた」と言っていた父には、「学問とは所詮資料の問題である。いかに系統立てて整理するかだ」という信念に似たものがあった。学問に限らず日常生活でも、父は整理好きだった。小引き出しが50もある箪笥を誂え、全部に「はがき」「切手」「印鑑」といった見出しを付けた。これは私たち家族にも大変便利だったのを覚えている。
2.父親代わりの菊池寛氏
子供の頃、私は毎日、3軒先の菊池寛の家で遊んでいた。長男の英樹君が私の一つ下だった。菊池家ではいろいろな動物を飼っていた。猿や九官鳥、オウム、グレーハウンドやマルチーズのような珍しい犬もいた。新しいものが好きな菊池寛が見せてくれたフランス製の手回し映写機の外国漫画や、ミカン箱を撃たせてくれたドイツ製の空気銃などは、そのころどこの家にもなかったものである。
英樹君はあまり丈夫ではなく、暴れん坊の私と遊ばせて鍛えようとしたのかもしれない。運動会が近づくと、ウォルサムのストップウォッチを片手に、子供たちが家の中を駆け回る時間を計っていた。小学校の低学年のころは、英樹君と一緒に出来立ての豊島園に連れて行ってもらい、ウオーターシュートにも乗った。外出はいつもなぜか男3人だけで、神楽坂の田原屋の洋食や銀座のモナミ、資生堂パーラーなど当時は文化人の常連が多い普通では行けないモダンな店だった。
1932年(昭和7)のある日、3人で浅草の帝国館で時代劇初のトーキー大作「忠臣蔵」を見た。その足で常盤座に回り、全盛時代のエノケン(榎本健一)一座の喜劇に酔い、最後に鳥金田でとりすきをご馳走になった。私はまさに夢心地だった。中学になると落合に引っ越したが、私は10年ほど可愛がってもらった。
3.藤野忠次郎さん
三菱商事で最初の上司が藤野さんだったことは、商社マンとして幸運だったし、今でもありがたく思っている。藤野さんは戦前の米国勤務が長く、GHQの信頼も厚かった。三菱商事の解散についてはGHQとの連絡役も務めていた。解散指令後は渉外部長として残務整理を進める一方、新たに設立した太平商工の社長、さらにアンガウル島リン鉱開発会社の社長と一人で3役をこなしていた。
進駐軍関係の残務整理は藤野さんと私と同期の小暮君の3人でやった。街を歩くと、進駐軍の兵隊とすれ違う。藤野さんは「この人はカーペンターだ」「あれはミュージシャンに違いない」などと言う。小暮君と私が「みんな軍服なのに、どうしてそんなことまで分かるのすか」と言うと、「俺みたいにアメリカに長くいると、職業くらいすぐ分かる」。愉快なぶらぶら歩きだったが、「分からない単語は必ず辞書を引き、単語帳に書いておけ」というのが口癖だった。
4.英国BPと大型・組合せ取引の成立
1964年(昭和39)2月、私は本社の船舶課長だったが、ロンドン駐在を命じられ5月に赴任した。船舶輸出は相変わらず好調で、ロンドンでも花形だった。猛烈に忙しく、毎日深夜になった。他の課は土曜日は休みだったが、船舶課だけは休めなかった。ロンドンに止まらず、オスロ、ミラノ、アテネなど飛び回った。
1967年1月頃と思う。飛び切り大きな話が舞い込んだ。ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)とのコンビネーション・ディール(組合せ取引)である。BPの役員から当時の切替次郎支店長に突然、「オフィスに来てくれ」との電話があった。「何の件か」と訊ねると、相手は「タンカーとオイルの話だ」とだけ答えた。切替さんが「船の話だからお前も来い」と言うので、私も一緒にシティーのBP本社を訪ねた。
先方はまず「BPの原油を日本に売りたい」という。三菱商事は原油の輸入資格を持っていたが、BPの原油はシエルや米国の石油会社よりバレル当たり2,3セント高いので、輸入していなかった。先方は続いて、「確かにBP原油は国際価格より少し高いが、それを3年間で200万トン買ってくれれば、三菱商事に20万トンタンカーを2杯発注する」。BPは国策会社だから本来はタンカーを外国に発注できないが、原油が売れるなら政府の許可もとれると言うのだ。
そのころ、20万トンタンカーといえば世界最大級。三菱商事や三菱重工業にとって、BP向けに20万トン級タンカーを売るというのは夢のようなことだった。帰りの車の中で、切替さんと私はなかなか興奮が収まらなかった。支店に戻り二人で長文の電報を作成し、東京に送った。
東京では、割高な原油は三菱石油に相場並みに売り、そのマイナス分はタンカー輸出の利益から捻出したようだ。BPも日本という新しい市場に原油を売るメリットと子会社のBPタンカーが船を買う採算をうまく調整する。この辺りがコンビネーション・ディールの玄妙なところだ。67年8月に契約が纏まった。タンカーは21万3千トンが2杯、日本円で100億円強、原油も同じくらいで一挙に合計200億円の取引が成立した。
氏は、’13年6月23日に亡くなった諸橋氏(90歳)は逆境にこそ真価を発揮する経営者だった。
いままでの商社出身の登場者は、14人いるが三菱商事では最初で槇原稔氏と二人である。三井物産の4名(新関八洲太郎氏、足立正氏、水上達三氏、八尋俊郎氏)、伊藤忠商事の3名(伊藤忠兵衛氏、越後正一氏、室伏稔氏)に比べて現在の業界トップ地位からすると少ない。他には日商岩井の2名(高畑誠一氏、西川政一氏)、丸紅の2名(市川忍氏、春名和雄氏)、兼松の鈴木英夫氏がいる。
部下から土佐犬に例えられた豪快さと、文学や芸術に造詣が深く時には詩作にふける繊細さを持っておられた。父親は漢字研究の第一人者の諸橋徹次氏だった。その3軒先に作家の菊池寛宅があり、1歳下の長男と遊ぶため毎日訪問した。「履歴書」は次のように書いている。
菊池寛は既に文壇の大御所。「金山御殿」と呼ばれていたその家は玄関を入ると右側に12畳ぐらいの洋間があり、大島紬をゆったり着た主人を毎日のように文士や記者が取り囲んでいた。川端康成や横山利一ははっきり覚えている。私たちはその間を駆けずり回っていた。略。
夕方いつものように肩に猿を乗せ着流しの菊池寛の散歩について行くと、夏目漱石の墓の前で足を止めて言った。「これが漱石先生の墓だ。僕はきっとこの人より偉くなる」。そうかと思うと、私と二人きりになったとき、「この路地で一番偉いのはシンちゃんのお父さん、その次は僕」とぽつんとつぶやいたことがある。菊池寛は少年時代の私にとって、友達のお父さんなどというものではなかった。父親の役割の一部を果たしてくれていたとも言える。
もろはし しんろく 諸橋 晋六 | |
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生誕 | 1922年7月13日 日本 東京都 |
死没 | 2013年6月23日(90歳没) |
出身校 | 上智大学経済学部卒業 |
職業 | 実業家 三菱商事元特別顧問・相談役・会長・社長 |
受賞 | 勲一等瑞宝章受章 名誉大英帝国勲章受章 贈従三位 |
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名前 | ||||||
カタカナ | モロハシ シンロク | |||||
ラテン文字 | MOROHASHI Shinroku | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1922年7月13日[1] 大日本帝国、東京府北豊島郡[2] | |||||
没年月日 | 2013年6月23日(90歳没) 日本、東京都 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1937-1939 | 東京高等師範学校附属中学校 | |||||
1942-1947 | 上智大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
三菱商事 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。東京府北豊島郡出身。三菱商事株式会社元特別顧問・相談役・代表取締役会長・代表取締役社長。勲一等瑞宝章受章。名誉大英帝国勲章受章。贈従三位。