掲載時肩書 | 日本医師会会長 |
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掲載期間 | 1967/06/06〜1967/07/09 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1904/08/07 |
掲載回数 | 34 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應予 |
入社 | 医局 |
配偶者 | 牧野伸顕 孫娘 |
主な仕事 | 中学病気(2年)、内科(血液・消化器・呼吸)、茶の効用、理研、心電計、肝臓ジストマ、第一次吉田内閣裏方、日本医師会 |
恩師・恩人 | 与世里盛春、仁科芳雄教授 |
人脈 | 山本丘人、バーナードリーチ(隣人)萩原吉太郎、石黒忠篤、小泉丹、岩波茂雄、小林勇、茅誠司、中谷宇吉郎 |
備考 | 肝臓ジストマ人脈 |
1904年8月7日 – 1983年12月20日)は京都生まれ。医師、日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。太平洋戦争後の厚生行政に於いては各種審議会の委員を委嘱され、1961年(昭和36年)には全国一斉休診運動を強行するなど、厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎と言われた。医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。武見敬三の父でもある。「履歴書」では医師、科学者、官僚、学者の人脈を書く。
1.肝臓ジストマが取り持つ交友関係
北海道大学の物理学者・中谷宇吉郎さんが肝臓ジストマに罹り、主治医として担当し完治させたことにより、多くの友達ができた。中谷さんの最も親しい友達の藤岡由夫君が彼を見舞いに来て、私と知り合いになったが、藤岡君も肝臓ジストマの患者だったので完治させた。この中谷、藤岡両君との関係が後になって仁科芳雄教授とつながり、私が理化学研究所行きになるとは、当時思わず人間関係はわからないものである。
安倍能成先生も岩波茂雄さんも小宮豊隆先生もみな肝臓ジストマの被害者だった。小林勇さんも例外ではなかった。そこで、その原因を探求せざるを得なくなって調べると、有名な料亭で岩波さんにご馳走になった一党が寒鮒のさしみをいい気分になって食べた報いであることが分かった。その時私も一緒だったが、肝臓ジストマのことを考えて箸をつけなかったので助かった。これらの方々はみな私の所で駆虫をした。してみると、これらの方々との交友関係は虫が取り持つ縁となる。肝臓ジストマは私の「恩虫」かもしれない。
2.結婚―牧野伸顕伯、吉田茂との関係
当時正金銀行(東京銀行→現三菱UFJ銀行)頭取だった大久保利賢さんの夫人(高橋是清翁の長女)も私の患者で、この方からも私は信頼されていた。大久保利賢さんは維新の元勲大久保利通の末子で、内務大臣牧野伸顕伯はその実兄であった。
大久保夫人の関係で牧野内大臣の診察をすることになった。幸いに牧野伯の痼疾は良い方にすすんで私は信頼を得た。すると大久保夫人は牧野伯の二女利舞子の娘を私に推薦され、誠意をもって説得された。私はあまり急いで女房をもらう気はまだなかったが、少し耳を傾けることにした。また、枢密院顧問の南弘さんからも見合いを勧められたのが同じ人物だった、今の私の妻、英子である。
見合いは簡単なもので、牧野伯の自室で英子とその両親に会い、10分か15分間牧野一家と雑談をしたにすぎなかった。吉田茂元首相の夫人が牧野伯の長女であったことから、吉田家と私とは多少の姻戚関係ができることになった。世間では私と吉田さんとは血がつながっていて悪い所が甚だ似ているように伝わっているけれども、血縁関係がないことだけはこれで明らかになると思う。
3.吉田外相に学者を紹介する
昭和20年(1945)10月、幣原内閣が発足し吉田外相が実現した時、牧野伯は私を呼んで「吉田は国際的には大人物を知っているが、日本人についてはあまりよく知っていない。ことに学者はあまり付合いがないので、ひとつ家へ見えるあの先生方を外相官邸に呼んで話を聞かせてやってくれないか」とのことだった。
早速私は岩波さんと相談して、アメリカ大使館の突き当りの当時の外相官邸に岩波、安倍、和辻哲郎、仁科芳雄の諸先生をはじめ一連の学者を集めた。この時、吉田さんは大変用意よく渋沢敬三さんを侍らせて、慎重な構えで学者の言うことを聴かれた。終戦後の混乱の中でこのような催しがされたことは、後に吉田さんが学者を追いかけたというような世俗的な意味ではなく、新日本の政治の中に学問をどうして取り入れるか、という具体的な学者の思索が為政者に伝わる貴重な機会となった。
この会合は吉田さんの外相時代続けられ、吉田さんが「日本にこんないい人がいることを知らなかった」と言ったくらい融けあった仲になった。こののち吉田内閣ができてから、中山伊知郎さんにしろ東畑精一さんにしろ和田博雄さんにしろ、これらの人が重く用いられたのにはそのようなわけがあった。
たけみ たろう 武見 太郎 | |
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防衛医科大学校卒業式で祝辞を述べる武見(1980年3月16日) | |
生誕 | 1904年(明治37年)8月7日 日本 京都府 |
死没 | 1983年12月20日(79歳没) 東京都 |
墓地 | 妙法寺 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 慶応義塾大学医学部 |
職業 | 医師 |
肩書き | 世界医師会会長 |
配偶者 | 秋月英子 |
子供 | 武見敬三(第27代厚生労働大臣) |
親 | 武見可質(父) 武見初(母) |
親戚 | 菊地養之輔 大友よふ |
武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本の医師。日本医師会会長や世界医師会会長を歴任した。
太平洋戦争後の厚生行政に於いては各種審議会の委員を委嘱され、1961年(昭和36年)には全国一斉休診運動を強行するなど[1]、厚生省の官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎と言われた。医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。
医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。第27代厚生労働大臣・武見敬三の父でもある。