小林勇 こばやし いさむ

商業

掲載時肩書岩波書店会長
掲載期間1972/01/30〜1972/02/23
出身地長野県
生年月日1903/03/27
掲載回数25 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
商業高校
学歴その他神田正則英語
入社岩波書店
配偶者岩波次女
主な仕事徴兵忌避、25歳独立、留置4回、文庫本、新書、株式会社化、ドキュメント映画
恩師・恩人岩波茂雄 幸田露伴
人脈武者小路、三木清、羽仁五郎、武見太郎、郭沫若、 安部能成(監査役)、寺田寅彦、小泉信三、吉野源三郎
備考絵と書、 誠実、露伴の葬儀委員長
論評

1903年3月27日 – 1981年11月20日)は長野県生まれ。編集者、随筆家、画家。岩波書店の創業者の女婿であり、同社会長を務めた。中谷宇吉郎、初代中村吉右衛門など文化人たちとの交遊は幅広く、生涯にわたり書画を描き「吉井画廊」などで個展を十数回催した。数多くの随筆評伝などの著書を上梓している。

1.岩波茂雄の人柄(当時40歳、私17歳)
(1)岩波は女学校の教頭から古本屋になったほど、当時としては変わった商人であるから、店員に対する態度も、他の古書店の主人との関係とは違っていた。家族的ではあったが、店員を夜学へやったり、その前には大学生と二人、店に呼んで、店員のための夜学を開いたりしていた。また、立派な野球の道具を揃えて、店員のチームができていた。岩波はまた、乗馬を楽しんでいた。自分で馬を持っていて、それに乗って歩いた。
(2)岩波は容貌魁偉で調子の太い人であったが、反面こまかいことによく気の付く人であった。美術品を自分で買うことはなかった。しかし美術は好きで、良いものを鑑別する能力を持っていた。それが造本に良い影響をしたものと思う。
(3)岩波は漱石、露伴など大家だけでなく若いこれからという学者を尊重した人だ。自分の信頼する学者が推薦する無名の学者に対して、大家に対するのと少しも変わりのない態度を持って接した。私は今になっても、岩波が若い学者の前で、きちんと座って熱心に話していることを忘れることができない。
(4)書店の自分の室には自分の師と仰ぐ人の写真を飾っていた。漱石、西田幾多郎、寺田寅彦、杉浦重剛などと共に孫逸仙(孫文)の肖像が一枚加わっているのが、その室に入る人に強い印象を与えていた。

2.岩波から無言の教育
いろいろな著者訪問に付いていき、私が岩波から無言のうちに教えられたのは、誠実でなければいけないということだった。時間を守ること、約束を守ること、知らないことは知らないということ、同時に少々知っていても、それをひけらかさないこと、など。編集者として基本的な態度であった。

3.郭沫若氏と岩波
郭氏が千葉県市川の寓居から戦乱の祖国へ脱出したのは1937(昭和12)年のことであった。郭氏は祖国に赴くのにあって、一篇の詩を残されたという。私はそれを見なかったが、岩波はそれを見ると、すぐに郭氏の家を訪れて、その家族に、今後の生活を自分がみてさしあげる、子供さんたちが大学を出るまでの学費をさしあげると申し出た。
 郭氏の子供たちがそれぞれ大学を出たのは3,4年後であった。このエピソードに後日談がある。郭氏が戦後、中国の開放後、日本にやってきたのは、1955年(昭和30)12月であった。そのとき郭氏は非常に忙しい中を、鎌倉の東慶寺にある岩波の墓に詣でてくれた。そのとき、郭氏は東慶寺住職井上禅定師の請に応じて一篇の詩を作られた。
生前未遂織荊顔  逝後空餘掛剣情
為祈和平三脱帽  望将冥福裕後毘
私は岩波が新しい中国の誕生をどんなに喜んだろうかと考え、生きてもらいたかったとしみじみ思った。

小林 勇(こばやし いさむ、1903年明治36年)3月27日 - 1981年昭和56年)11月20日)は、編集者、随筆家、画家。号は冬青。岩波書店の創業者岩波茂雄の女婿であり、同社会長を務めた。

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