東畑精一 とうはた せいいち

学術

掲載時肩書東京大学名誉教授
掲載期間1978/04/30〜1978/05/30
出身地三重県
生年月日1899/02/02
掲載回数31 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他八高
入社大学院
配偶者記載なし
主な仕事助手(1年)→助教授、米独仏留学4年、農学教授→経済教授、アジア経済研究所、農業総合研究所
恩師・恩人蠟山政道、シュン ペーター
人脈横田喜三郎、犬丸徹三、加瀬俊一、中山伊知郎、小林中、吉田(組閣拒否)、小倉武一
備考地主、人生訓(駿馬と老馬)
論評

1899年(明治32年)2月2日 – 1983年(昭和58年)5月6日)は三重県出身。日本の農業経済学者。農学博士。シュンペーターの革新論や企業者論を中軸に日本の資本主義や農業問題に独自の解明を行った『日本農業の展開過程』などで第二次世界大戦の終結までは主に学究面で活躍、戦後は農林省農業総合研究所所長、アジア経済研究所所長、税制調査会会長など多くの調査研究機関、政策関係委員会の要職を歴任、戦後の日本社会に多方面で大きな影響を与えた。

1.大正成金の狂態
大正5年(1916)から8年にかけての時期は、国内経済が大いに展開した。その根本は第一次世界大戦であった。日本の国内物資はことごとく輸出品となり、日本は大金持ちになった。
 どうも人間は急に富み大金を手にすると、平常心を失い、半ば気が狂ったようになる。米価が高くなって収入が増えたとして、せっかくの良い歯を抜いてギラギラした金歯に代えたという手合いも出てくる。大学を卒業して間もなく海運業に従って巨富を得て処分に困り、一時に100着の洋服を注文する男も出てきた。広大なる住宅を建て邸内のプールにビールを満たし、美服をまとった芸者をその中で泳がせ、人間金魚を新宅の披露に客に見せた男もいる。今ならだれも信用しないが、当時の新聞記事となったものばかりだ。

2.吉田内閣の農林大臣を固辞
昭和21年(1946)5月、東大農学部の研究室に突然石黒忠篤氏と武見太郎氏とが現れた。第一次吉田内閣の「農林大臣として入閣し食糧問題の解決に当たって欲しい」との内意の要請だった。両氏と別れて2時間余り、再び武見さんがやって来て、吉田茂氏と直接会ってくれとのこと、同道して銀座の武見診療所に行ったが、吉田さんは既に来ていた。
 初対面の吉田さんが医者の席、私が患者の席についた。吉田さんは明日組閣の大命を拝するとのこと、吉田内閣の使命は2つ。一つは憲法の制定で担当閣僚は内定した。他はその年の新米の収穫までの半年間、いかに国民に食料を供すべきかである。ついては農相として入閣して欲しいであった。
 私は返答のために2つの問題を解かねばならない。1つは、現実問題の国民食料の調達である。これは進駐軍の返答にかかってくると考えた。2つは、全く私の個人的問題で、すでに50歳、政治家の仲間入りに耐えうるか、また政治家の日常の行動、姿勢、そしてあの選挙である。私には耐えられないと思った。こういう次第で私はこの要請に消極的にならざるを得なかった。吉田さんは二度も拙宅に来られたし、政府側からも度々の使者がきたが、誠に済まないが、どうかお許しを願いたいと懇願して、お別れした。

3.老馬の役割
昔から老馬知夜道と言われた。老馬は御者の案内がなくても、夜道を知っており、行くべきところに無事着くのである。その老練さを述べた言葉であろう。駿馬を老馬と、どこが異なるかと聞かれても困るが、ただ重要な一点の相違がある。駿馬は夜道を駆けることができないのだ。現代、ことに政治や国際関係には、昼間もあるが夜もある。チャキチャキの駿馬ばかりいて、老馬が少ないように思う。だから事態はギコチなく進み、ギコチなく終わる。ダレスの駿馬は居ても、老馬ホー・チ・ミンに及ばぬこと少なくない。東洋の心は駿馬のみでは征せられない。

東畑 精一
東畑精一(1956年)
生誕 (1899-02-02) 1899年2月2日
日本の旗 日本 三重県一志郡豊地村
死没

1983年5月6日(1983-05-06)(84歳)

日本の旗 日本
研究分野 農業経済学
母校 東京大学
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東畑 精一(とうばた せいいち、1899年明治32年)2月2日 - 1983年昭和58年)5月6日[1])は、日本農業経済学者。農学博士。次女は東畑朝子

  1. ^ 東畑精一』 - コトバンク
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