掲載時肩書 | 元財務次官 |
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掲載期間 | 2024/01/01〜2024/01/31 |
出身地 | 埼玉県 |
生年月日 | 1943/07/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 開成学園 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 橋口収娘 |
主な仕事 | 文書課、米国日本大使館、主計局、非自民連立政権、金融庁分離、降格、大蔵次官、日銀副総裁、大和総研、東京五輪事務総長 |
恩師・恩人 | 須藤アイ先生 |
人脈 | 福田赳夫、森喜朗、福井俊彦、橋本龍太郎、宮澤喜一、小泉純一郎、竹中平蔵、絹谷幸二 |
備考 | 叔父の養子に、趣味:絵画(個展) |
氏は大蔵(財務)省次官経験者の登場では、河野一之、谷村裕、澄田智、高木文雄、長岡實に次いで、6番目である。大蔵省部局単位の業務内容、米国日本大使館での仕事、非自民連立政権誕生による戸惑い、金融庁分離発足、日銀総裁人事、東京五輪・パラリンピックの内幕などを書いてくれていた。
1.米国・日本大使館での仕事
1975年5月から3年間、ワシントンの日本大使館に勤務した。妻と1歳の長男を連れての赴任となった。超大国の首都であるワシントンは忙しい。大蔵省のカウンターパートとなる米財務省や議会に人脈を広げなければいけない。昼はビジネスランチ、夜は公私にわたる様々なパーティがこの街の文化だ。東京からは大蔵大臣や財務官ら大蔵省幹部が頻繁に出張してくる。国会議員団が来れば、そのお世話もする。書記官は雑用も多く、最初の2年間は長い休みはとれなかった。
家族ぐるみで親しくなったのが、米財務省で日本を担当していた一人、ロバート・フォーバーさんだった。後に主要7か国首脳会議(G7サミット)でクリントン米大統領のシェルパ(個人代表)も務められた。1977年1月、カーター大統領の就任式に米財務省から招かれた。
2.非自民連立政権で苦労(主計局次長時代)
1993年夏、自民党が小沢一郎さん、羽田孜さんらの脱党で分裂し、衆院選で過半数割れ。社会党、小澤さんらの新生党、公明党など8党派が細川護熙首相を擁立し、非自民連立政権が誕生した。55年体制が終わった。94年度予算編成は誰がどう主導するのか、官僚の予測もつかない乱世に突入した。私は社会保障担当の主計局次長として、野党自民党きっての厚生族議員である橋本龍太郎政調会長に状況を報告しなくてはと考えた。自民党本部を訪ねると、橋本さんは、「僕は自民党と大蔵省は夫婦みたいな関係と思っていたよ。だけど、いざ下野すると、役人どもは冷たいね」とつぶやかれた。
私は「官僚は時の政権に仕える立場なので・・・」と口ごもった。橋本さんは「それはきれいごとだな」と納得されなかった。自民党が大蔵省に向ける視線は厳しかった。
3.大蔵省を財政と金融行政に分離(官房長時代)
1996年1月に発足した橋本龍太郎内閣は、住宅金融専門会社(住専)処理策を盛り込んだ96年度予算の国会審議で苦しんだ。自民党、社民党、新党さきがけの連立与党は世論も見据え、大蔵省改革プロジェクトチームで金融行政改革の議論を急いだ。行革会議は中央省庁を再編して1府12省庁に減らす方向に進むが、大蔵省は「財政・金融の分離」が焦点となった。私は97年7月に三塚博大蔵大臣、小村武次官を補佐して省内運営の要となる官房長に就任していた。
橋本首相に直接、意見を述べる機会もあった。財政と金融は独立して政策決定がされてしかるべきだが、通貨価値の安定に両者の連携が不可欠で、完全分離は適切ではないと考える旨を申し上げた。この対応を近年は、財務大臣が金融担当大臣を兼務することで、一つの知恵を出している。97年12月の行政改革会議最終報告では、国内金融の企画立案も「金融庁」に移すことになった。
4.日銀総裁人事の内幕
2003年1月に財務次官を降り、退官した。ひと月もたたぬうちに福田康夫官房長官から呼び出され、首相官邸で面会した。3月20日付で日銀副総裁に就いて欲しい、とのお話だった。すぐに小泉純一郎首相の執務室に呼ばれ、首相からも正式な内示を受けた。新総裁は日銀出身の福井俊彦さん、もう一人の副総裁は内閣府政策統括官だった岩田一政さんだ。
日銀の金融政策決定会合は総裁、二人の副総裁、6人の審議委員の9人の合議制だ。多数決で意思決定する。多様な意見や背景を持つメンバーが多角的な議論をすることでより良い結論が導き出され、独立性も確保しやすい、との思想に基づく。同質的な顔ぶれにならないのが望ましい。
総裁と私を含む副総裁二人の2008年3月の任期満了が迫ってきた。この年に入り、私は福田康夫首相から「次の総裁に任命したい」との内々の打診をいただいた。しかし、07年の参院選で自民党が大敗し、野党が参院の多数を占めて衆参ねじれ国会が出現していた。このため、日銀正副総裁の国会同意人事は政争の具と化した。野党第1党の民主党は、財務省出身者が総裁になるのは「財政・金融の分離」に反すると言い出した。
結局、結論は決まっていた。この私の日銀総裁人事は、衆院では可決され、参院で否決された。政治では多数が正義である現実は百も承知していたので、否決にショックを受けることはなかった。ただ、国会同意人事には衆参両院で議決が異なる場合に協議する仕組みがない。否決した方が常に勝つのだ。国家の意思決定のあり方としては疑問も感じた。
5.2020年東京五輪・パラリンピックの事務総長
2014年1月、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の事務総長に就いた。会長の森喜朗元首相とは30年以上のお付き合いがあり、説得された。
(1)大会前:16年8月、組織委が選定した五輪の追加種目として、5競技18種目が承認された。野球・ソフトボール、空手は当時から日本のメダル有望と期待したが、いざ大会が始まると、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンでも日本のメダリストが続出することになる。10代の選手の活躍も際立った。
19年10月、IOCが五輪のマラソンと競歩の会場を東京から札幌市に移すべきだと言ってきた。カタールでの世界陸上選手権で、酷暑で大勢の選手が途中棄権したのを見て、東京でも同じ事態が起きうると懸念したようだ。東京都にしてみれば、議論を積み重ねてコースを決め、路面を保水性の舗装に変えるなど暑さ対策にも全力を注いできた。突然の移転を受け入れられるはずもなかった。だが、IOCのバッハ会長の決意は固く、「アスリート・ファースト」だ、と押し切ってきた。小池百合子都知事は「合意なき決定」だと名セリフを残した。
(2)五輪1年延期
2020年3月、世界的な新型コロナウィルス禍で暗雲が垂れ込めた。3月24日夜に安倍晋三首相とバッハ会長との電話会談をセットした。その前の首相公邸での打ち合わせで、首相が1年延期案を示された。森会長は「2年延期はどうか」と話されたが、首相は1年あればコロナ対策なども間に合うのではないか、とのお考えだった。電話会談で、首相が「1年延期が適当ではないか」と提案されると、バッハ会長は即座に了解された。
(3)無観客五輪の開催
2021年も新型コロナウィルス禍は続き、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は3月、政府、東京都、国際オリンピック委員会(IOC)などと協議して海外からの観客受入れを断念した。我々は国内の観客は限定的でも何とか受け入れたいと思っていた。しかし、7月8日にまたも都に緊急事態宣言が出されることが決定し、この日に原則として無観客での五輪開催を決断した。痛恨の思いだった。
チケットはインターネットで抽選販売するシステムを築き、延期前には約865万枚を売り上げていた。一部の会場で観客を受け入れることが出来たが、ほとんどは払い戻し、非常に辛い残念な仕事だった。
五輪の17日間、パラリンピックの13日間は様々なドラマと感動を残し、あっという間に過ぎた。日本選手も大活躍し、五輪で史上最多のメダルを獲得した。五輪は日本がメダルを取れるかどうかハラハラして観戦したが、パラリンピックでは障害のある選手の並外れたパフォーマンスを見て、思わず感動の涙を流した。
スポンサー収入は順調だったが、チケット収入はほとんどなくなった。しかし、何とか収支均衡にこぎつけた。山あり谷ありの8年半を経て組織委は22年6月末に全事業を終え、解散した。
生誕 | 1943年7月2日(81歳) 埼玉県浦和市 |
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出身校 | 東京大学法学部第1類卒[1] |
大蔵・財務事務次官、日本銀行副総裁などを歴任した。元株式会社大和総研理事長、言論NPOアドバイザーリポート、前学校法人開成学園理事長、元東京大学先端科学技術研究センター客員教授。元2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長[3]・理事[4]。