芸術
掲載時肩書 | 美術家 |
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掲載期間 | 2025/08/01〜2025/08/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1951/06/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 京都市立芸術大学 |
学歴その他 | 文章教室 |
入社 | 某電機メーカー |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 短編「宇宙箱」第1位入選、文章教室、京都市立芸大講師、ゴッホ、NY個展、女優シリーズ、男シリーズ、美術館、人間浄瑠璃、チーム・モリムラ |
恩師・恩人 | 河井達海、佐々木節雄 |
人脈 | アーネスト・サトウ、小池一子、三宅一生、堤清二、シンディ・シャーマン、蜷川幸雄、芝川能一、西澤徹夫、桐竹勘十郎 |
備考 | 自己表現の芸術家、座右の銘「不射之射」 |
肩書が美術家とあるので、過去の「美術」がついた肩書き登場者を思い出した。坂本五郎(古美術商・店主)、ジョー・プライス(美術蒐集家)、杉本博司(現代美術家)、辻惟雄(美術史家)がいるが、古美術商であり、蒐集家であり、学術専門家、実業家であった。氏は自分を絵画や彫刻、モデルなどポートレイトで演じ、自己表現する芸術家だと思えた。
1.美術家の自己紹介
私は何者かに扮した自分自身を写真撮影するという、セルフポートレイト手法の作品を作り続けている。ゴッホやフェルメールの絵を下敷きにしたりもするけれど、画家ではない。かと言って風景やモデル撮影をするわけではないから純然たる写真家でもない。だけど何かを制作しているわけで、ならば美術作品を作る人という意味で「美術家」と呼んでみてはどうかと考えた。
2.佐々木節雄先生(美術顧問)の3原則
佐々木先生は、大阪府立高津高校の美術教諭であり、美術クラブの顧問でもあった。先生の持論の一つに、「大きい、たくさん、早い」の3原則がある。絵の上達のためには、第一に大きな絵を描くべし。大きい絵が描ければ、小さい絵は簡単に描けるようになる。第二にたくさん描くべし。1枚に手間取っているよりも、ともかく何枚も描きなさい。そして第三に早く描くべし。早く、たくさん、大きな絵を描いているうちに、おのずと絵は上達する、と。
先生は東京芸大で油絵を学び、ご自身も展覧会で作品を発表する画家だった。それにもかかわらず、美術大学は害あって益なしと公言してはばからなかった。美術大学を卒業後、売れ出すにつれて絵の質が悪くなっていく友人の画家を何人も見てきたのだという。売り絵になってはダメだ。自分の好きな絵を描き続けるためには、絵を売るな。これもまた、先生が何度も口にした、私たち生徒への切実な忠言だった。
3.アーネスト・サトウ教授
1979年(昭和54)後半、E・サトウ教授から突然連絡をいただいた。京都市立芸術大学が、京都洛西の沓掛に移転が決まり、新たに写真実技の非常勤講師が必要となった。その非常勤講師を担当して欲しい依頼だった。
サトウ教授は、日本人の父親とアメリカ人の母親を持つ。戦後、若くして渡米し、コロンビア大学で学んだ。その後、ライフ誌などで活躍する写真家となった。教授は白髪混じりの頭髪を七三に分け、胸元に母校のコロンビア大学のワッペンが縫い付けられた紺のブレザー。冬場だとブレザーの下に赤のトックリのセーターを着て、リンゴの形の大きなルーペをネックレス代わりにぶら下げていた。
講談風景も独特だった。左手には氷で割ったウオッカのグラス、右手にはキャメルの両切りタバコ。この出で立ちで、モダニズムとは何かといった芸術論や、ニューヨーク時代の友人バーンスタインが指揮するマーラーなどにも話が及ぶ。感極まると途中から講義は英語混じりになった。
4.ゴッホになる
1985年、私は突然ゴッホになった。ゴッホが自らの片耳を切った、あの有名な自画像をもとに、私自身の顔に油絵タッチのメイクを施した。そして耳に包帯を巻き、粘土で作った帽子や上着を着て、大型カメラで撮影した。こうして、まるでゴッホの絵のような写真ができあがった。
何ものかに扮した自分自身を撮影するという、セルフポートレイト手法による写真作品の、これが最初の試みだった。「肖像(ゴッホ)」は、同じ年の7月に京都の「ギャラリー16」で開催されたグループ展で発表した。
5.女優になる
1995年当時、私はすでに40代半ばだった。私が映画女優に扮し、これを写真に撮って「女優シリーズ」として発表する。これ、やってみたいと、私の妄想にスイッチが入った。幸いなことに、「女優になる」チャンスは直ぐにやってきた。「パンジャ」という月刊誌に「女優シリーズ」を1年間連載し、これを纏めて横浜美術館で発表するという企画が持ち上がったのだ。
連載期間中、私はマレーネ・ディートリヒ、マリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーンと、月替わりで女優になり続けた。水性と油性のファンデーションを顔に二重に塗り込み、毛穴やシワを消し去った。アイラインとシャドーを通常の倍くらい派手めに入れた。眉毛は全部剃り、元の位置よりはるか上に細くくっきりと描いた。限界までコルセットを締め、ウェストを細めることも怠らなかった。
「マイ・フェア・レディ」のヘプバーン、「風と共に去りぬ」のビビアン・リー、彼女たちの華麗なドレスを、私のサイズに合わせてオーダーメイドで作るというのも、“女優”ならではの贅沢だった。映画「バーバレラ」のジェーン・フォンダが履くエナメルのロングブーツは、どこに行っても見つからず、ついに新宿のSMショップで見つけた時は狂喜した。「女優シリーズ」は多くの展覧会に出品される人気シリーズとなった。性や人種の枠組みを越境する表現として評されることが多かった。社会が抱える矛盾や偏見と、私なりの自分探しが響き合ったのだと思う。
6.人間浄瑠璃に挑戦
2020年4月2日、大阪日本橋の国立文楽劇場で桐竹勘十郎さんとお会いした。初めての勘十郎さんは物腰が柔らかく、気さくで楽しい方だった。そして好奇心旺盛とお見受けした。そこで私はこんな提案を投げかけた。「ちょこっと面白いことをしたら」と、この提案が人形浄瑠璃ならぬ「人間浄瑠璃」に化けたのだった。
「人間浄瑠璃」とは、人間の私が人形になり、人形遣いに操ってもらうという企画である。まずは床本(台本)である。言い出しっぺの私が「人間浄瑠璃」用の床本を書かないと、作曲も振り付けも始まらない。ドイツロマン派のE・T・A・ホフマンに、自動人形が登場する幻想小説「砂男」がある。これに想を得て、人間そっくりの生き人形に恋する男の身に起る恐怖を、日本の怪奇譚風に書き上げた。
できた床本を鶴澤清介さんに作曲していただいた。清介さんは「ええ床本や。すぐに音が降りてきた」と機嫌がよかった。浄瑠璃作家の近松門左衛門に「なった」気もして、ちょっと面映ゆかった。人間浄瑠璃「新・鏡影奇譚」は2022年2月26日と27日、大阪中之島美術館の開館記念講演として、美術館ホールで上演された。太夫、竹本織太夫。三味線、鶴澤清介ほか2人。人形遣い、桐竹勘十郎ほか12人。
勘十郎さん曰く、「人形になりはるんやったら、人間捨てなあきません」。人形に魂を入れるのは人形遣いである。人間としての「我」を捨て、心身を空っぽにしなければ人形にはなれない。私は自分の両腕と両足を封じた。代わりに、勘十郎さん自らが製作した「人間浄瑠璃」用の人形の手が使用された。右手と頭は面(おも)遣いの勘十郎さんが操作する。頭は自前の私の顔を使ったが、勘十郎さんが首の後ろから指圧の要領で顔の向きや傾きを指示してくれた。人形の左手は左手遣いが、そして足遣いが着物の裾さばきによって足を表した。
人間は自分の自由意志ではなく、もしかしたら人形のように、何か人智を超えた大きな力に操られているのかもしれない。私が人形になったのではなく、そもそも人間自体が人形なのではと実感できる”悟り“に近い体験であった。