杉本博司 すぎもとひろし

芸術

掲載時肩書現代美術作家
掲載期間2020/07/01〜2020/07/31
出身地東京都
生年月日1948/02/23
掲載回数30 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
立教大学
学歴その他米アートスクール
入社1日5ドルの世界旅行
配偶者資生堂宣伝部女性、再婚
主な仕事ジオラマ、MoMA認定、骨董、古美術商、能、文筆、新素材研、文楽、江之浦測候所、ベルサイユ茶室、映画監督、オペラ公演
恩師・恩人
人脈福武総一郎、吉福伸逸、現代美術、オノ・ヨーコ、三木富雄、イサム・ノグチ、森稔・佳子、吉田蓑助、原俊夫、大林剛郎
備考父:落語愛好家
論評

*850人目の登場
氏はこの「私の履歴書」が昭和31年(1956)3月に鈴木茂三郎氏の初登場以来、850番目の登場者になった。肩書が現代美術作家とあり、美術家なのか作家なのかと疑問に思った。過去の登場者は作家、建築家、実業家など職業が明確だったからだ。氏の足跡をたどると、写真家、骨董、古美術商、能プロデュース、文筆業、新素材研究、文楽戯作・公演、江之浦測候所の光学硝子舞台やベルサイユ宮殿の池にガラス茶室展示、映画監督、オペラ公演など才能がどんどん進化して、どれが職業なのか判断がつかない。この流れからして、現代美術(アート)を紹介しながら、経営者としても認められた世界的実業家のように思えた。

*アートの役割
氏は、「アートとは一人のうちに見える夢を、多くの人にも見えるようにする仕事だと思う。私は人生とは二幕ものの喜劇だと思っている。夜の部と昼の部という。夜のとばりが街をつつむ頃、私は眠りにつく。いつの間にか意識は薄れ夢の世界の住人たちが目を覚ます。東の空に茜色がさす頃、夢の住人たちはお休みと言って消えていく。私は昼を担当する。私の物語は、人が人となった頃を思い出すことだ。私の血の中に流れる太古の記憶を通じて」と書いて「履歴書」は始まっている。

*アートの融合化
妻の古美術商を手伝いながら、日本の古美術のすばらしさを学び、日光華厳の滝を撮影した際、真夜中一人で息を凝らしながら、森の霊気を感じ、獣の気配を嗅ぎ、草木の眠る寝息を聞いた。氏は一睡もせず、夜明けの気配とともに虫たちが小声で語りだし、鳥たちがさえずり始めるのを聞いていた。このとき、人が森の中で生きていた頃の記憶が、自分の血の中で蘇ってくるのを感じたと書く。また、瀬戸内海にある直島の護王神社再建を頼まれたとき、この神社をアートとして再建するのは不遜と考えた。しかし、宗教の起源とアートの起源は同じだ。歴史の始め、人が人になった時、人はその心の中に神を見いだし、アートも始まった。神殿を荘厳なものとすることは長らくアートの大きな使命だったと気づき、仕事を引き受けたとも。

*アートの進化と深化
私(吉田)がびっくりしたのは、氏が文楽と能を演出したことだった。文楽の場合、文楽大夫の竹本織太夫から上演されていなかった近松の曾根崎心中の原作全文の復曲を要請された。「私は、太夫の望みを聞き実現を買って出た」とあるから、「これがアートになるの?」と思ったのです。しかし、人間国宝の人形遣い・吉田蓑助師匠にも頭巾を被ってもらい、素顔をも隠してもらって、人形だけが見えるように工夫した。これが闇の中に浮かぶ等身大の人形として見え、大変な評判を得、多くの海外公演につながった。パリ公演では翌朝のルモンド紙の一面トップで激賞されたとある。まさにアートとして高く評価されたことになる。また能演出では、NYの太平洋戦争の遺物収集で硫黄島の栗林忠道中将関連遺物や巣鴨のA級戦犯である板垣征四郎大将が集めたA級戦犯の辞世句収集から得たヒントでした。氏は「能は死者の魂の復活劇だ。私の蝋人形の魂の復活と何か通じるものがある」と感じ、そこでこのA級戦犯を主人公にした「死を覚悟した心境」能を公演し、自らも出演した。

*担当記者も凄い
この異分野にとどまらず、ベルサイユ宮殿では毎年一人のアーティストが選ばれる個展に出展し、この宮殿内の池に浮く、千利休のわびを表現したガラスの茶室を展示した。また、「永遠の命」を主題とした舞踏劇をパリ・オペラ座の依頼で制作した。これを21世紀の現代バレエ曲として編曲しなおし、音楽を日本人、振り付けと舞台衣装は外人に依頼し、最後の能場面では、能役者を登場させ、幽鬼と化した能装束で演じてもらった。すごい発想だと驚嘆してしまう。氏の才能は多才で哲学的なのは分かるが、この才能を過不足なく文章化した担当記者もすごい人だと思った。

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