掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1965/02/26〜1965/03/17 |
出身地 | 大分県 |
生年月日 | 1903/05/30 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 五高 |
入社 | 多摩刑務所 |
配偶者 | 病死、再婚 |
主な仕事 | 戦後追放、新夕刊、「西郷隆盛」、カストリ流行作家、文芸時評、太平洋戦争肯定論、文章報国 |
恩師・恩人 | 高源重吉、扇谷正造 |
人脈 | 鎌倉文士(里見、大佛、川端、小林、 中山、林、高見)、横光、清水崑、岩田専太郎、吉田健一、三島由紀夫 |
備考 | 戦後からの「私の履歴書」 |
1903年(明治36年)5月30日 – 1975年(昭和50年)10月9日)は大分県生まれ。小説家、文芸評論家。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。三島由紀夫と林の出会いは、1947年(昭和22年)6月27日「新夕刊」編集部であった。当初より三島は、林に好感を持ち、親交を続けた。林への書簡で、自身の文学論や高見順ら左翼的文壇人への憤慨などを吐露する。三島は同じ東京帝国大学法学部出身でもあった林を、常に尊敬し1963年(昭和38年)に『林房雄論』を書く。この「履歴書」文章は、昭和20年(1945)戦後の「私の履歴書」になっている。
1.高見順日記による私の言動
陛下の敗戦の詔勅は林一家そろって、ラジオの前に正座して聞いた。母も妻も伯母も涙を流した。二人の息子たちも真剣な顔でうなだれていた。「高見順日記」に次のような一節がある。
「8月17日、島木健作が病死した。その翌日の通夜の席上の話である。円覚寺の朝比奈官長、里見、久米、大佛次郎、永井、川端、小林、中山、中村、林、津村、上森、高見など、鎌倉の文士はすべて顔をそろえたが、たちまち議論になり、軍部の抗戦派を驕慢な軽挙妄動として責めるもの、いや、抗戦派にも一理はある、無条件降伏にただ従ったのでは日本の将来はめちゃめちゃになる、一億玉砕のつもりでぶつかれば、そこに何か光明が生まれるかもしれぬ」など、さまざまに分かれたそうである。が、私には詳しい記憶はない。
「林は『承詔必謹』であった」と高見氏は書いている。「林は、大詔は哲学であるという。大詔を拝した時、迷ったが、熟考の結果、哲学であると思った、と林は断固として言った。川端康成さんは終始黙っていた」と。
2.GHQから追放される
昭和23年(1948)、公職追放は作家たちにも及び、武者小路、菊池、吉川、尾崎、石川、丹羽、火野などの諸君とともに私もG項追放になった。もとより覚悟していたことだが、後になって、これは全面的な執筆禁止ではなく、政治批判に類するものさえ書かねばよろしいということが分かって、その「寛大さ」に驚いた。
3.失業文士の新聞「新夕刊」の発足
追放されて失業中の文士は私を含め鎌倉には、久米正雄、川端康成、高見順、中山義秀、永井龍男などがいた。助け舟を引っ張ってきたのは、小林秀雄君であった。この人は文士だが、文壇離れした友人をいろいろ持っている人物だ。戦争中上海に行ったとき児玉機関の高源重吉という人物と親友になった。その高源氏が児玉誉士夫氏から「やまと新聞」を譲り受け、新新聞を出すことになったが、その編集を引き受ければ、小林と私に支度金として5万円ずつくれるという。
とにかく、口説き落とされた形で、私は小林と一緒に焼け野原の東京へ出てきた。これが「新夕刊」という奇妙な新聞の始まりだった。渉外係を吉田健一君に頼み、横山隆一、泰三兄弟、清水崑にはマンガを担当してもらって何とか発足したのだった。
4.三笠宮様ご夫妻のお人柄
鎌倉時代に辰野隆大先生、久保田万太郎、日夏耿之介など鎌倉文士を来賓に招き、宴会をときどき催していた。あるとき宮様ご夫妻も来られた時は、大変にぎやかで、ついに徹夜になってしまった。宮様は例によって酒はお飲みにならなかったが、わが家の手料理はことごとく召し上がった。
さて、夜が明けて、私が短いうたた寝から覚め、客間に出てみると、宮様が一人でソファに胡坐をかき、何か歌いながら消えたスト―ブを焚きつけていた。その歌がなんと浪花節であった。「僕は浪花節も好きですよ」 宮様は少し照れたように言われた。「これでも軍人だったのですからね」とも。
林 房雄 (はやし ふさお) | |
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『サンケイグラフ』1954年8月8日号より | |
ペンネーム | 白井 明[1] |
誕生 | 後藤 寿夫(ごとう ひさお)[1] 1903年5月30日[1] 大分県大分市大分港 |
死没 | 1975年10月9日(72歳没)[1] 神奈川県鎌倉市[1] |
墓地 | 鎌倉報国寺 |
職業 | 小説家、評論家 |
最終学歴 | 東京帝国大学法学部中退[1] |
活動期間 | 1925年(大正14年) - 1974年(昭和49年)[1] |
代表作 | 『青年』(1932年) 『息子の青春』(1950年) 『妻の青春』(1952年) 『大東亜戦争肯定論』(1964年) 『西郷隆盛』(1942年-1948年、1964年-1970年)[1] |
主な受賞歴 | 第13回文学界賞(1937年) 第1回大衆雑誌懇話会賞(1947年) |
デビュー作 | 「日和見主義の誕生」(1925年) 「林檎」(1926年)[1] |
配偶者 | 繁子(妻)、好子(後妻) |
影響を与えたもの |
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。