映画演劇
掲載時肩書 | 東宝名誉会長 |
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掲載期間 | 2016/06/01〜2016/06/30 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1934/12/18 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 甲南大学 |
学歴その他 | 甲南高 |
入社 | 東宝 |
配偶者 | ヅカ生男優(23歳) |
主な仕事 | テニス日本代表、NY駐在、欧州(買付けと販売)、東和出向、ホリプロ連携、「伊豆の踊子」、「屋根の上のバイオリン」影武者、映画、演劇、貸ビル、 |
恩師・恩人 | 川喜多長政、清水雅社長 |
人脈 | 石黒修、高野悦子、岩谷時子、藤本真澄、菊田一夫、黒澤・勝事件、森繁久彌・森光子・佐久間良子・山本富士子・十朱幸代・長谷川一夫・美空ひばり、沢口靖子、 |
備考 | 父:東宝社長(松岡家に婿養子)、小林一三(祖父) |
氏は、映画・演劇業界の経営者として、堀久作(日活)、大谷竹次郎・永山武臣(松竹)、永田雅一(大映)、大川博・岡田茂(東映)、川喜多長政(東和東宝)、植田紳爾(宝塚歌劇)、中邨秀雄(吉本興業)に次いで10人目である。阪急系では3人目となる。氏の父親・小林辰郎は、小林家の二男で松岡家の婿養子になり、当時の東宝社長は父の長兄、つまり小林富佐夫伯父だった。だから旧阪急グループの創立者、小林一三は氏の祖父だった。
1.テニスで全国優勝
氏は大学時代からテニスで全国優勝する実力者となり、日本代表の加茂公成、宮城潤に次ぐプレヤーとして日本代表となった。そしてデビスカップにも出場した実績も持つ。氏の次男・修造もプロテニスプレヤーとして一時代を築いたのも、父親の優れた血を引いていると思える。
2.東宝に入社
東宝の入社試験を受けたのは1956年(昭和31)の暮れだった。会場は当時の東京本社。今の日比谷シャンテが立つあたりだ。翌57年の正月から5日間、内定者全員が最寄りの映画館で、研修を兼ねたアルバイトを命じられた。私が行ったのは大阪・梅田の邦画封切館、梅田劇場だ。あのころ、映画は娯楽の王様だった。元日の朝から超満員になる。まず、開演のずっと前に出勤して観客を迎える準備をする。劇場のドアを開くと待機していた観客がなだれ込んで来るから「いらっしゃいませ」と声をかけ、切符を切る。最初は声が出なかった。
私が入社した1957年の映画館入場者数は10億9900万人弱。封切館の入場料は大人150円で、もっとも安い二番館やこども料金などを含めた平均料金は62円だった。その結果、興行収入は681億円余となる。翌年は11億2700万人、723億円に達した。これが映画産業のピークだった。
3.ローマ赴任で川喜多長政夫妻と
東宝は清水雅社長が国際化路線を打ち出す前からローマとパリに事務所を構えていた。私にローマ行きの辞令が出たのは1965(昭和40)年3月のことだ。ローマ事務所は東宝取締役でもあった川喜多長政さんが社長の東和(現東宝東和)との共同事務所だ。後にマカロニ・ウエスタンと呼ばれるイタリア版西部劇が盛んになってきたころで、日本に受けそうな作品を選定して買い付ける。そして東宝作品を売り込むのが仕事だった。
川喜多さんは戦前の北京大学を卒業してドイツに留学し、昭和の初めから欧州の映画を日本に紹介してきた。妻のかしこさんは夫の仕事を助ける傍らベルリン、カンヌ、ベネチアなどの国際映画祭の審査員を務め、世界の映画人からマダム・カワキタとして尊敬と親しみを集めていた。ローマでの映画の買い付けは、イタリア人のブローカーと私とで新作を見て、目ぼしいものを選ぶところから始まる。年に2,3回やってくる川喜多さんが、3日間、試写室にこもって15本ほどの新作を見る。私もずっと川喜多さんのそばでスクリーンに目を凝らしていた。
4.黒澤明監督と勝新太郎との衝突
興味深かったのは、映画「影武者」で黒澤明監督が主演の勝新太郎との衝突で、主役交代事件の真相暴露であった。この事件に関しては、黒澤監督も勝夫人の中村玉緒さんも主役交代原因を公にしたことはなかったから。勝と親しかった氏が、黒澤監督との間に立って主役を仲代に交代する説得役になった。この原因は、黒澤監督が考え抜いて配置した本番用のカメラが何台も置いてあるリハーサル現場に、勝がビデオカメラを持ち込み、無断で撮影していたからだった。監督にとって俳優は自分の指導で自分のイメージ通りに演ずればよく、それ以外のことをしてはならない。それをしたので黒澤組の鉄則に触れることとなったのだった。そうか、そういうプロの不文律があるのだと知った。
5.「伊豆の踊子」がヒット
1971年(昭和46)の年間映画館入場者数は2億1600万人で最盛期の5分の一以下に落ち込んだ。なのに東映は任侠路線や高倉健主演の「網走番外地」シリーズなどで制作・配給部門が絶好調。ずっと下に松竹、さらに下に東宝がいた。
3社は全国の大都市に直営館を持っている。入場者数が減っても、平均入場料が最盛期の5倍以上になっていたから、興行部門が上げる利益はむしろ増え続けた。同年11月、日活が一般映画から撤退しロマン・ポルノ路線に活路を求めた。そしてついに12月、大映が倒産する。
73年4月、東和に6年も出向していた私は常務営業本部長として東宝に呼び戻された。父にがんが見つかり入院したのはその頃だ。前の社長だった清水雅さんが、再び経営を見ることになった。営業本部は配給、興行、宣伝、外部からの企画窓口になる映画調整の各部を統合したものだ。
営業本部長になってほどなく、バンド時代の友人・ホリプロの堀威夫さんに会った。訪ねてきた堀さんは「山口百恵で映画をつくりたいんです。作品は「伊豆の踊子」。共演は三浦友和です」と切り出した。山口百恵こそアイドルの中で最も映画向きだと密かに思っていた。山口百恵こそアイドルの中で最も映画向きだと密かに思っていた。「やりましょう」と即答した。74年公開の「伊豆の踊子」は当たった。以来、百恵・友和コンビの作品が正月と夏休みの映画の定番となり、7年間に13本も公開された。
6.事業の多角化
氏の経営手腕で目立ったのは、「雪の女王」などの映画部門、「屋根の上のバイオリン弾き」や宝塚歌劇などの演劇部門の黒字化、そして映画館を商業ビル化して、賃貸収入の安定化を図ったことだった。それは東京、大阪、名古屋などに直営の映画館が入るビルを14棟もっていたため、このビルをシネマコンプレックス(複合映画館)に建て直し、1ケ所に10スクリーンあってもトイレや売店は共通だから人件費は3分の一で済ませ、運営管理費も10館の映画館に比べると4分の一になったという。繁華街の一等地映画館は高層ビル化して、高級ブランドのテナント入居に成功したことだった。こうして賃貸収入が東宝の収益源に育ったと書いているが、これが他社との違いだろう。
まつおか いさお 松岡 功 | |
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生誕 | 1934年12月18日(90歳)![]() |
出身校 | 甲南大学経済学部 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 千波静 |
子供 | 松岡宏泰(長男)、松岡修造(次男) |
親 | 松岡辰郎 |
栄誉 | 全国興行生活衛生同業組合連合会 特別功労大章(2015年)[1] |
松岡 功(まつおか いさお、1934年(昭和9年)12月18日[2] - )は、日本の実業家・テニスプレーヤー。東宝名誉会長(元代表取締役会長)、日本アカデミー賞協会名誉会長[3]。兵庫県芦屋市出身[4]。
- ^ “第60回「映画の日」中央大会開催、金賞は「妖怪ウォッチ」「ベイマックス」”. 映画.com (2015年12月2日). 2015年12月2日閲覧。
- ^ 時評社 1992.
- ^ “2025年度日本アカデミー賞協会役員一覧” (PDF). 2025年8月19日閲覧。
- ^ 河井 1980, p. 229.