掲載時肩書 | 本州製紙社長 |
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掲載期間 | 1969/04/18〜1969/05/20 |
出身地 | 愛知県名古屋東区 |
生年月日 | 1889/11/13 |
掲載回数 | 33 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 王子製紙 |
配偶者 | 友山>木下養子、友人妹と再婚 |
主な仕事 | 苫小牧、樺太、日本人絹パルプ会社、シベリア捕虜57歳、帰国61歳、王子製紙分離(苫小牧・十条・本州) |
恩師・恩人 | 藤原銀次郎、松田令輔 |
人脈 | 高島菊次郎、大川平三郎、足立正、中島慶次、 |
備考 | シベリアで辛酸(し尿・死体運搬等)を舐める |
1889年〈明治22年〉11月13日 – 1977年〈昭和52年〉3月8日)は愛知県生まれ。実業家。王子製紙に入社し、1956年(昭和31年)に本州製紙(現・王子ホールディングス)社長に就任。社団法人日本包装技術協会(JPI)の第2代会長を務めた。同団体は、木下の包装界に対する多年の功績を記念して「木下賞」(3部門)を創設、毎年発表されている。対象は、包装技術の向上や包装産業の発展に貢献した製品・アイデアなど。戦後4年間のソ連シベリヤ抑留時代を詳細に記述してくれていた。
1.樺太の冬
大正9年(1920)秋、私は樺太の大泊工場に赴任した。冬は寒いので防寒の菜っ葉服に、中近東の女性のように目だけ見えるようにしたチャドールのようなものを被り、手には軍手をはめる。パルプ工場は下が水でペチャペチャしているのででん粉を入れて再生した“でん粉靴”という長靴を履く。足が冷えるので靴底にワラや枯れ草を入れる。それでも寒いときは唐辛子を入れる。唐辛子はホカホカとして温かかった。人間は、その環境に応じて色々なことを考え出すものだ。女は角巻き、芸者なども雪が降ってくると、角巻きを被り、長靴を履いて座敷へ来たものだ。
物はたいてい凍った。酒でもビールでも床に置くと凍るので天井からタナを吊って並べておく。ルンペンストーブという、鉄板のストーブに薪をくべて暖をとるのだが、ストーブが真っ赤にならないと我慢できないくらい寒い。木造の長屋は、吹雪になると隙間から雪が白く積もっていることもあった。
2.北方民族の生活習慣
樺太の気温は、当時の測候所調べでは年間平均で零度以下だった。北と南では違うが、10月半ばごろから雪が降り始め、冬は5月まで続く。6月になると、樹々は冬から目覚めたように一斉に緑になり、高山植物をはじめ、花という花が一斉に咲き始める。それが9月になると急激に訪れる寒気のため、黄ばんで散る。
北樺太の敷香付近には300人ほどのギリヤークやオロチョンなどの北方民族が住んでいた。オロチョンは放牧の民で水草を追ってトナカイを放牧する。ギリヤークは狩猟の民族でアザラシやオットセイなどの獲物を氷上に追う。彼らは村田銃のような旧式の鉄砲しか持っていなかったが実に根気よく、一日中同じ場所で獲物が現れるのを待つ。しかも一発必中、彼らに狙われたらどんな獣も倒されてしまう。彼らは倒した海獣を血を流しながら生で食うのだった。
彼らの葬式は、いわゆる風葬だった。人が死ぬと棺おけに入れて大きな木の上に、カラスか何かの巣のように縛り付けておく。肉も骨も、厳しい自然条件の中で風化してしまうのだろうが、私は野原で、頭蓋骨の目玉の穴から、木が生えているのを見たことがある。原野の吹き曝しで見た光景は、凄惨だった。
3.人間の極限状態では
零下40度で外に出て重労働をさせられた。加えて極度に粗悪な食物。みんなが栄養失調の状況を呈し、ガリガリに痩せた。夕べ隣で元気に話していた人が、朝見たら冷たくなっていることがよくあった。
こういう極限の状態に置かれると、信仰に燃えている人とか精神的に練れている人は別だが、人間はあさましくなる。ケンカはするし、人のものは盗る。あいつは小食だと見るとその隣に座り、残しゃせんかと見ていてすぐ食いつく。チョッとよそ見をすると人のものをパっと食べて知らん顔をする。そうなるとただ食べて寝るだけで、色気など全然感じなくなる。
抑留中私は、食べることと寝ることと、そして病気にかからないことの3つだけを懸命に守った。たとえゴミために落ちているじゃが芋でも食べられるものは蒸して口にしたし、寝ずの番に立たされれば、立ったままで寝た。そうしないと死ぬと思えば、人間はたいていのことはできるものだ。そうしていても過労と寒さと栄養不足で、朝点呼の号令をかけられても足がふらついて並んでいられないことがあった。