岩沙弘道 いわさひろみち

建設・不動産

掲載時肩書三井不動産相談役
掲載期間2024/07/01〜2024/07/31
出身地愛知
生年月日1942/05/27
掲載回数30 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他明和高校
入社三井不動産
配偶者明子(先輩紹介)
主な仕事不動産鑑定士、住宅課、マーケットイン、大阪支店、直営ホテル、都市再開発、バブル崩壊、構造改革、証券化、ミッドタウン、J-REIT、日本橋再開発
恩師・恩人江戸英雄、田中順一郎
人脈武藤清、坪井東、小山五郎、高山英華、小林陽太郎、椎名武雄、広瀬博、米倉弘昌、御手洗富士夫、小宮山宏
備考父:愛知教育大教授
論評

氏は不動産系でこの「履歴書」に登場した、江戸英雄(三井不動産:1980・5)、森泰吉郎(森ビル:1991・11)、福澤武(三菱地所:2016・4)に次いで、4人目である。大先輩の江戸氏ほどの多彩で大規模な事業展開はないが、不動産物件の証券化や情報開示を進めて投資家を呼び込むことに成功した。これにより旧態依然の不動産を「産業」にまで脱皮させた手腕が讃えられる。

1.江戸英雄さん
58年前(慶大院生24歳)、当時の社長・江戸英雄さんに直接面談した。江戸さんは1927年(昭和2年)に三井財閥の持株会社である三井合名(後の三井本社)に入社。文書課に配属され、三井十一家の当主や三井系各社首脳と直接に接する仕事をされた。戦前も血盟団による団琢磨三井合名理事長暗殺や欧米贔屓の三井に対する軍部の圧力など苦労が多かったと聞くが、最も悩まれたのは戦後の財閥解体だったのではないか。全役員が追放の対象となり、三井本社の解散から三井家の資産整理まであらゆる残務が総務部次長だった江戸さんの肩にのしかかった。
 その残務が一段落した47年、請われて三井不動産に入社し、55年に社長就任した。千葉県の浚渫埋め建て事業に進出し、京葉工業地帯の造成。そして特筆は千葉・浦安地区での東京ディズニーランド建設である。京成電鉄などと共同出資で事業会社オリエンタルランド(OLC)を設立したのは60年だった。

2.都市再開発
大阪支店勤務は5年間。本社に戻ったのは1986年4月だった。この年、私は44歳。渡された辞令は本社開発企画部の課長だった。50~60年代の高度成長で飛躍した日本経済は、70年代の二度にわたるオイルショックで一時的に減速するものの、80年代には鉄鋼・造船・化学などの重厚長大産業に代わって半導体や家電・コンピューターといったエレクトロニクス産業が主役となり、世界最強のモノづくり大国として世界に君臨するようになる。
 一方、戦後の急成長の代償として、大気汚染や港湾河川の水質汚濁といった公害問題が深刻化。大都市圏の人口集中地域では通勤地獄の解消という狙いもあり、工場や倉庫など生産・物流拠点の郊外移転に踏み切る企業が増え始めていた。移転後に残される広大な土地をどう活用するか・・・。この課題を解決する方策として注目されるようになったのが市街地再開発。私たちはデベロッパーとして取り組んだ。
 折から開発企画部の事業モデルとなる東京都中央区佃の墨田川河口付近に広がる、後の「大川端リバーシティ21」の開発が本格的に動き出していた。石川島播磨重工業(現・IHI)が1979年、この地にあった造船所を閉鎖し跡地約9・2haを三井不動産や日本住宅公団(現・都市開発機構)が取得したことでスタートした。この周辺には三井倉庫の物流拠点や三井記念病院(東京・千代田区)の看護師寮など三井グループゆかりの施設が多くあり、それらも併合し再開発の対象地域は最終的に28・7haに拡大した。

3.不動産を証券化する
1998年6月26日、株主総会後の取締役会で正式に社長に就任した私は直後に渡米した。表向きは米不動産の視察だったが、もう一つ秘めたる目的があった。私が訪ねたのはモルガンスタンレーの債券トレーダーだったジョン・ウェスタフィールド氏。後に米国三井不動産に転じ、最高経営責任者(CEO)を2015年から8年間務めることになる。彼のアドバイスはことごとく正しかった。さらに有難かったことに、不動産投資信託(REIT)や商業用不動産ローン担保証券(CMBS)など不動産証券化の仕組みを専門家の立場で細かく丁寧に解説してくれた。透明性を確保し、DCF(ディスカウント・キャッシュ・フロー)法、すなわち開示情報に基づく収益還元法で不動産の現在価値を弾きだしていた米国の話を彼から聞くうちに、私は日本の不動産事業の再生も「不動産のセキュリタイゼーション(証券化)、これしかない」と思った。
 帰国後早速、国内で実証実験に取り掛かった。まず東京・虎ノ門の新日鉱ビルの信託受益権を約700億円で買い取り、99年3月にCMBSを発行した。次は「バルクセール(一括売却)」だ。長銀系ノンバンクの日本ランディックが保有する13棟のビルを計約350億円で購入し、同年4月にやはりCMBSで商品化した。購入者はいずれも海外ファンドだったが、塩漬け状態の不動産市場が動き始めた。

4.製販を一体化する
社長になって住宅部門でも大掛かりな組織改革を断行した。それまで分譲住宅事業は三井不動産が用地取得から商品企画、建設まで、子会社の三井不動産販売が販売をそれぞれ担当する役割分担があったが、その枠を取り払い、2005年12月に設立した三井不動産レジデンシャルに集約。住宅分譲事業の「製販一体化」を実現した。
 住まいのニーズは世代ごとに変わり、賃貸住宅から持ち家へ、その後リフォームや買い替えから、家族の独立や婚姻に伴う転居、やがて高齢者向けのケアハウスといった具合に局面は展開していく。さらに住居、宿泊の概念を広く捉え、サービスアパートメントやホテルを含む大掛かりな改革にも乗り出した。賃貸住宅とホテルは、所有型でない有期の滞在施設として共通性があると考え、05年4月、従来の4事業本部に加え、アコモデーション事業本部を新設した。日本を訪れる外国人客の滞在バリエーションとして、サービスアパートメントの需要は必ず出てくると睨んでいたからだ。
 またビジネスホテルは2つあったブランドを「三井ガーデンホテル」に統一。新たなフラッグシップ(旗艦)として05年11月に三井ガーデンホテル銀座プレミア(同・中央区)である。リゾート分野も拡大。05年3月に全国でホテルやゴルフ場を運営・管理していたミサワリゾート(現リソルホールディングス)を傘下に収め、07年から合歓の郷(現ネム・リゾート、三重県志摩市)などのリゾート施設の運営を引き継いだ。

5.日本版不動産投資信託(J‐REIT)の発足
2001年9月10日、第一号として上場したのはジャパンリアルエステイト投資法人と日本ビルファンド投資法人。初日から両銘柄とも売買代金が100億円を超え、時価総額は2銘柄合計で2600億円に達した。
「やれやれうまくいったな」とホッとしたのも束の間、直後に大きな嵐に吞み込まれる。翌11日、後に「セプテンバー・イレブン(9・11)」と呼ばれた米同時テロが起きた。世界中のマーケットが動揺し、J-REIT市場も相場が急落。「やっぱりダメじゃないか」と辛らつな声が聞こえてきたが、私は「ここは我慢のしどころ」と冷静な対応を呼びかけた。人やモノの動きが一瞬立ち止まっただけ。遠からずビジネスは再開し、市場は機能を回復するはずだ。見立て通り、02年3月に三菱商事系の日本リテールファンドが3番目の東証上場を果たすなどで成長軌道に戻った。
草創期の最大の危機は08年9月に起きたリーマン・ショックだった。米ヘッジファンドなどが資金繰り悪化で一斉にJ-REITから投資を引き揚げたため市場が機能不全に陥り、10月には首都圏の大型マンションを運用対象にした外資系REIT法人が民事再生法の申請に追い込まれた。J-REITの資産規模は7兆円超に達していた。ここで投資家を裏切るわけにいかない。私は不動産証券化協会(ARES)のメンバーと対策を練った。まず、窮地に陥ったREIT法人を支援するため再生ファンドを作った。ARES加盟社で集めたエクイティ300億円をベースに日本政策投資銀行が600億円のメザニンローン(劣後債)、メガバンクが5000億円のシニアローンを拠出する合計5900億円のファンドである。
また、REIT同士のM&A(合併・買収)が事実上不可能だったことが中小法人の成長を妨げるネックになっていたが、金融庁に掛け合い、決算期が異なる場合の分配金処理など制度上の問題を解決してもらった。これら一連の対策を僅か3か月でやり遂げ、このショックを克服した。

いわさ ひろみち

岩沙 弘道
生誕 (1942-05-27) 1942年5月27日(82歳)
日本の旗 日本愛知県
出身校 慶應義塾大学法学部卒業
慶應義塾大学大学院法学研究科修了
職業 実業家
テンプレートを表示

岩沙 弘道(いわさ ひろみち、1942年5月27日 - )は、日本実業家三井不動産取締役[1]不動産証券化協会相談役[2]慶應義塾評議員会議長、連合三田会名誉顧問。学位は法学修士

  1. ^ 社長交代および代表取締役の異動に関するお知らせ”. 三井不動産株式会社. 2024年5月17日閲覧。
  2. ^ 不動産証券化協会 組織・役員”. 不動産証券化協会. 2024年5月17日閲覧。
[ 前のページに戻る ]