掲載時肩書 | 宗教学者 |
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掲載期間 | 2018/03/01〜2018/03/31 |
出身地 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1931/05/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 86 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 花巻北 |
入社 | 大学助手 |
配偶者 | 大学後輩 |
主な仕事 | 親鸞、蓮如、ドストエフスキー、印度哲学、釈迦、鈴木財団、春秋社、インド、イスラエル、 |
恩師・恩人 | 神田龍一 |
人脈 | 高村光太郎、宮沢賢治、梅原猛、家永三郎、河合雅雄、隼雄、 |
備考 | 父:本願寺僧侶 |
氏は宗教的関係者としてこの「履歴書」に登場した、鈴木大拙、橋本凝胤、池田大作、御木徳近、庭野日敬、立花大亀、葉上照澄、山田恵諦、有馬頼底、森本公誠についで11人目である。父が本願寺僧侶、母も寺持ち僧侶の次女であったから、人間の生と死を早くから見つめ、考える環境にあった。
1.人間と自然が一体化
鈴木大拙財団の編集委員をしていたある夏、武蔵野のあぜ道を歩いてると、「大きな白犬の死骸がごろんと横たわっていた。すでに皮は裂け、赤黒い肉片が膿み、ウジの大群がわきでている。蠅のうるさい騒音があたりの空気を震わせていた。(略)。秋の気配が立つころだった。鬱積した頭を抱えて歩いていたが、突然、あの白犬はどうなっているのだろうと、気になった。足早に近づくと、それはまだ同じ場所に横たわっていた。ウジや蠅の大群はすでに去り、腹から胸にかけて安らかな姿で寝ているようだった。(略)。季節が移り細かい雪が舞っていたが、同じコースを辿り、その場に立った時、雪の上にはつややかに輝く一枚の毛皮がゆったりと横たわっていた。不意に、あの空也上人の像が眼前に蘇った。鹿杖をつき、鹿皮を身にまとって歩きつづける念仏聖、その恍惚の表情は獣と一体化した革聖の姿だった」との箇所は人間と自然が一体化する文章として素晴らしい。
2.翁は神聖な存在
また、氏が50代のとき、3月間に3人の親しい働き盛りの友をガンで失った。入院中に見舞いに行くと、衰弱のためほとんど老人の相貌になっていたが、同時に成熟した翁の表情になっていた。「先祖たちはおそらくそのような人間の奥深さの意味に早くから気づき、翁の面を刻むようになったのだろうと思った。(略)。翁は神聖な存在だとするこの国の独自の考え方を生み出し、翁を尊重する数々の文化を誕生させるそもそもの源流だったことにも気づいた」と書いており、生と死、翁面と神との関係などを身近な事例で説明してくれている。
3.宮沢賢治の研究
氏は、また母の実家が宮沢賢治の生家に近いこともあり、賢治の研究も詳しい。「雨ニモマケズ」の中の「ヒドリノトキハ」の解釈が3つあることを教えてくれた。高村光太郎が「ヒドリ」をドをデと読み「日照り」の判断とした。これが通説となっているが賢治の弟子の一人、照井謹二郎は「ヒドリ」を「日取り」(手間稼ぎの意味)とし、冷害や飢饉のとき農民は出稼ぎの手間賃仕事に出なければならないとした。また、広島大学教授の小倉豊文は「ヒドリ」を「ヒトリ」の誤記で「一人」が素直な解釈だとした。へぇー、この3つはどれも正しく私には解釈できますから、新たな発見でした。
人物情報 | |
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生誕 | 1931年5月11日(93歳) アメリカ合衆国・サンフランシスコ |
出身校 | 東北大学文学部印度哲学科 |
学問 | |
研究分野 | 宗教史、思想史 |
山折 哲雄(やまおり てつお、1931年[1][2]〈昭和6年〉5月11日- )は、日本の宗教学者、評論家。専攻は宗教史・思想史[3]。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、21世紀高野山医療フォーラム副理事長、総合研究大学院大学名誉教授、平城遷都1300年記念事業評議員。教育改革国民会議委員[3]。角川財団学芸賞、和辻哲郎文化賞、山本七平賞選考委員。1997年に白鳳女子短期大学赴任以降は行政職に就くことが続いた[4]。岩手県花巻市出身[5]。京都市在住[1]。
日本人の宗教意識や精神構造を研究し、現代社会論や文明論を精力的に展開する。著書に『日本人の霊魂観』(1976年)、『悲しみの精神史』(2002年)、『義理と人情』(2011年)など。