有馬頼底 ありま らいてい

宗教

掲載時肩書京都仏教会理事長
掲載期間2003/03/01〜2003/03/31
出身地東京都
生年月日1933/02/10
掲載回数30 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
中学校
学歴その他岳林寺8歳
入社(金閣・銀閣) 館長
配偶者記載なし
主な仕事自性寺、相国寺、有馬記念ゆかり、教務部長(臨済宗14家)、臨済宗家復興、美術館創立(等伯・雪舟・若冲)、寺・音楽祭
恩師・恩人森下大拙和尚、大津攊堂老師
人脈天皇学友、有馬頼寧夫人、白洲正子、村上慈海(金閣)、妙心寺(山田夢文)、大西良慶・真興、稲盛和夫、千宗室・宗左、塚本幸一
備考久留米藩主の子孫、3古泉(有馬、草津、道後)
論評

1933年2月10日- )は東京生まれ。禅僧。臨済宗相国寺派管長。初名は有馬永頼。道号及び現在の戸籍名は賴底。法諱は承黙。大龍窟とも号する。久留米藩主有馬家(赤松氏流)の子孫。東京市中野区出身。幼稚園時代は明仁上皇の学友であった[2]。1933年、有馬本家当主でありまた中央競馬の競走名である「有馬記念」に名を残す有馬頼寧の従兄弟にあたる分家有馬正頼男爵の次男として生まれる。正頼は有馬頼多と三番目の妻英子(菊亭公長姉)の子。母は旧沼津藩主水野家当主水野忠亮子爵(水野忠敬長男)の娘・明子。

1.皇太子さま(現上皇さま)のお遊び相手
学習院の幼稚園の2年目、思いがけず皇太子さまの遊び相手の一人に選ばれた。殿下が翌年、学習院の初等科に入学されるので、事前に同年代の友達をつくっておこうとの配慮のようだ。指名されたのは徳川宗広、華頂博孝、柳沢徳勝、高倉永政君ら8人。当時の「主婦の友」に「皇太子様のお相手を申し上げるお子様方」という写真入りの特集記事が載っている。
 何人かが一組になり、交代で月に1,2回、土曜日の朝、幼稚園の先生に引率されて東宮御所に向かった。まず、紅茶とお菓子が出た。それから庭で待っていると殿下が三輪車に乗ってお見えになり、あとはブランコや砂場でみんなで遊ぶ。幼稚園とは勝手が違うし、子供ながらにみんなどこか緊張していた。

2.禅寺の修行時代
1941年春、8歳のとき大分県日田市の妙心寺派の禅寺、岳林寺の小僧となった。寺では朝、暗いうちから起こされ、住職の勤行の手伝いで一日が始まる。お経が済むと掃除。本堂に庫裏、庭と一時間はかかった。それから炊事。裏山からとってきた薪を釜にくべて炊くのは麦飯だ。昼間は小学校で勉強し、夜は住職についての仏法の時間。お経はひたすら暗記させられた。師が唱えるのをオウム返しに口にする。つまると怒鳴られ、忘れたらこぶしが飛んできた。
 掃除したはずなのにほこりが残っていたり、勤行の際の住職の座布団の位置がずれたりすると、最悪だ。得物は選ばない。手近にある箒の柄でも何でもいい。濡れ雑巾が最悪だった。あれで横っ面を張られると転げまわるほど痛い。薪で脳天を一撃され脳震盪を起こしたことさえある。

3.禅問答
「両掌相い打って音声あり。隻手に何の音声かある」。大津櫪堂(れきどう)老師が問う。両手を叩いたらポンと音がする。では片手ではどんな音がするか。ある僧に「犬にも仏性あるか」と聞かれた唐代末期の禅僧、趙洲は「無」とだけ答えた。これが禅問答だ。公案という。
 片手で音が出るわけがない。もともと知識や常識とは無縁の問いかけであり、正解があるようでない。そこに禅の思索の世界が広がるのである。趙洲の「無」もやっかいだ。有無なのか絶対的な無なのか。師はこれ以上、問い詰めてはだめだと思うとチリンと鈴を鳴らす。チリンときたらそれこそ有無を言わさず退出、後日、出直しだ。なぜそれではいけないのか、その説明はない。だめ、まだまだ、と追い込んでいくのだ。師が待つ参禅の時間を過ぎても言う言葉が浮かばなければ。行くに行けない。すると、先輩が飛んでくる。「こら、貴様、何で来んのだ」。
 夜も寝られなくなる。9時の消灯後、夜座と称する夜の座禅に出向いて必死に格闘するのだ。気がつけば起床時間ということも再三あった。師は新参者のすべてを奪い取って何もない状態にしてしまう。余計な分別を捨てろ、それが修行の第一歩だというのである。己を無にし、そして自分という存在を探り当てる。その手段となる公案、その数、1700に達する。

有馬 賴底(ありま らいてい、1933年2月10日[1]- )は、日本の禅僧。臨済宗相国寺派管長。初名は有馬永頼。道号及び現在の戸籍名は賴底。法諱は承黙。大龍窟とも号する。久留米藩有馬家赤松氏流)の子孫。東京市中野区出身。

  1. ^ 『現代日本人名録』
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