山田恵諦 やまだ えたい

宗教

掲載時肩書天台座主
掲載期間1992/12/01〜1992/12/31
出身地兵庫県
生年月日1895/12/01
掲載回数30 回
執筆時年齢97 歳
最終学歴
天台宗西部大学(大正大学)
学歴その他
入社入門8歳で得度
配偶者農家娘
主な仕事入隊、住職23歳、ケーブル、読経地獄、執行、ドライブウェー、座主、比叡山宗教サミット
恩師・恩人堀恵慶師
人脈大西良慶、村田寂順、唯我韶舜、赤松円麟、田村徳海、ルース・ベネディクト、一隅を照らす(最澄)
備考天海・大西僧正108歳、延暦寺3地獄(千日、掃除、読経)
論評

明治28年(1895年)12月1日 – 平成6年(1994年)2月22日)は兵庫生まれ。天台宗の僧侶。第253世天台座主を20年つとめ、昭和62年(1987年)8月3日、比叡山開創1200年を記念して比叡山宗教サミットを主催。カトリック教会のフランシス・アリンゼ枢機卿ら、世界の七大宗教の指導者24人が比叡山に集い、世界の平和を祈願した。また一隅を照らす運動を推進した。行動的だったので「空飛ぶお座主」といわれた。

1.比叡山の名物
比叡山の名物は昔から「論・湿・寒・貧」と言われてきた。「論」は論議で、学問の山だけにここの坊さんは何かというと問答する。「湿」は湿気、「寒」は寒さ。東に琵琶湖を控えた比叡山の標高は848m、日に何度も霧が湧いては晴れる、その繰り返しである。冬の寒さも格別で、山上は底冷えの京都より7度から10度も低くなるから、「貧」からくる栄養不足で体をこわす坊さんも少なくなかった。
 山の湿気を吹き飛ばすには、汗をかいて一杯やるのがいちばん。横川にこもったころの私も、よくマキ割をしては風呂を沸かし、熱いみそ汁をすすりながら酒を飲んだ。弟弟子に初めての子供が誕生したとき、お祝いに6人で八升をあけたのが記録で、今は夜ごと1合から1合半、孫のお酌で飲むのが楽しみだ。

2.比叡山の3地獄
これは回峰地獄、掃除地獄、看経(かんきん)地獄をいう。12年間山にこもり、そのうち千日間、毎日30㎞から84km、歩きづめに歩く千日回峰の地獄、伝教大師の御廟・浄土院を守って、落ち葉は勿論、雑草一本、チリ一つ残さず掃き清める掃除地獄。そして、法華懺法(せんぽう)に例時作法をはじめ、朝から晩まで経を読み続ける横川・四季講堂の看経地獄。地獄の苦しみに耐え、ひたすら続けることがすなわち修行である。私は昭和7年(1932)の4月からまる3年、横川にこもって四季講堂の看経地獄を勤めた。これらの日々は朝の4時から夕刻まで、ひたすら拝むのが日課だった。下界のことは何一つ知らず、このとき私はゆるぎない信仰ができた、と思うている。

3.海外交流
座主になった翌年から、私は積極的に海外に出て、世界の宗教者と交流を深めてきた。昭和50年(1975)に中国の天台山を訪れたのを皮切りに、米国、ポーランド、イタリアなどを訪問し、この秋、ベルギーで開かれた「世界平和の祈り」に参加したのを入れると、これまでに都合18回、海を渡ったことになる。
 最大の感激は宗祖伝教大師が苦難の末に渡って学ばれた中国の天台山国清寺の地を踏むことができたことである。80歳の年から訪問を重ね、87,90と参って、次は100歳で再訪する約束である。浙江省仙霞嶺にある天台山は杭州から220km、車で走っても休憩を入れ5時間半もかかる。804年、38歳の伝教大師はもちろん、歩いて着かれたわけだからその苦労やいかばかりだったろうと拝察したのだった。

4.世界宗教サミット
昭和60年(1985)8月4日午後3時半、大講堂の大梵鐘をはじめ、比叡山の6つの鐘の音が山内に響き渡った。これを合図に始まった「世界宗教者平和の祈り」は、日本の宗教史に残る一場面になるに違いない。東塔の広場に設けられたステージに登壇したのは、まず中国、スリランカ、米国の仏教代表たち。合唱して経を唱えると、続いてキリスト教代表、イスラム教代表、ユダヤ教代表、ヒンズー教代表、儒教、諸宗教組織代表、アッシジ代表らが次つぎに祈りと祈りの言葉を捧げた。これが2日に渡った「比叡山宗教サミット」のハイライトである。海外16か国の29人と、日本の宗教代表500人の祈りはやがて一つに溶け合い、深い感動が広がった。

山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年12月1日 - 平成6年(1994年2月22日)は、日本の天台宗僧侶。第253世天台座主を20年務め、「比叡山宗教サミット」の開催や「一隅を照らす運動」に尽力した。その行動的な姿から「空飛ぶお座主」といわれた[1]

  1. ^ 天台宗. “天台ジャーナル 第180号”. 天台宗. 2022年4月8日閲覧。
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