掲載時肩書 | 海外経済協力基金総裁 |
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掲載期間 | 1976/07/26〜1976/08/23 |
出身地 | 中国満州大連 |
生年月日 | 1914/11/03 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 逓信省 |
配偶者 | 梶井剛娘 |
主な仕事 | 昭和塾入会、興亜院、塩と大豆輸入、資源調査会、経済再建、欧米視察、エカフェ、経済白書、日本経済研究センター |
恩師・恩人 | 馬場敬冶、平貞蔵 |
人脈 | 松前重義、河合良一、根津嘉一郎、東畑四郎、大平正芳、愛知揆一、蠟山政道、大内兵衛、東畑精一、中山伊知郎、有沢広巳 |
備考 | 電気技術→エコノミスト |
1914年11月3日 – 1993年2月9日)は満州大連生まれ。外交官、経企庁の官庁エコノミスト。第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。芦田内閣の下に設置された経済安定本部で、池田勇人首相の肝煎りである国民所得倍増計画の策定に中心的に関わった。第2次大平内閣では藤山愛一郎以来の民間人閣僚たる外務大臣に起用され、8ヶ月間務めている(藤山は外相在任中に衆議院議員総選挙に出馬し、当選)。1980年のヴェネツィア・サミットには、開催の直前に大平正芳首相が急逝したため、外相の大来が代わりに出席している。外相退任後は国際大学初代学長を務めた。
1.昭和塾に入会
私がここに入ったのは昭和14年(1939)4月である。後藤隆之介氏が塾長、平貞蔵氏が事実上の副塾長だった。塾友は5、60人で半分ぐらいは大学生、後の半分は大学を卒業して2,3年の若い社会人。そういう若者を集めて、中国問題を始め政治・経済問題、アジアと日本の将来というような問題やテーマで講義が行われた。常任講師は後藤、平の他に笠信太郎、松本重治、東畑精一、尾崎秀実、風見章、蠟山政道、和田耕作、勝間田清一氏など多士済々であった。
塾生は勤めが終わった6時ごろ集まり、豚汁など簡単な晩飯を食べてから講義を聴くのである。講義の進め方は、まず先生の話があり、そのあと先生と生徒との質疑応答を交わす、という形式だった。そしてその内容は、「日本の将来をどう考えるか」ということが中心だった。
2.戦後問題研究会
昭和20年(1945)5月、敗戦がいよいよ明らかになってきたので、昭和塾以来なにかにつけて指導を受けてきた平貞蔵先生と相談し、密かに戦後経済に関する研究会を始めようと話していた。そして平先生から紹介状を貰って、山形県では石原莞爾将軍、秋田県では東洋経済の石橋湛山氏の疎開先を訪ねた。そしていよいよ戦後問題研究会の組織づくりにとりかかった。第1回の会合を8月16日に行うことにした。
終戦の翌日にもかかわらず、第1回の会合には、大内兵衛、平貞蔵、蠟山政道、東畑精一、中山伊知郎、亀山直人、巽良知、杉原荒太など10名ほどが参集した。会場になった満鉄ビルの大東亜省の総務局長室は、焼け残ったとはいえ、半ば破壊されていた。
初会合で印象深かったことは、大内先生が「日本としては、まず賠償問題を勉強しておく必要があるだろう」と発言されたこと、あるいは、いち早くブレトン・ウッズ体制のことが話題になったことである。
3.第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
私は多くの国際会議に出席したが、一番印象に残るのは、昭和30年(1955)4月にバンドンで開かれたこの会議である。日本代表団長は高碕達之助氏、中国は周恩来首相、インドはネール首相、インドネシアはスカルノ大統領、エジプトはナセル大統領など、新生A・A諸国の花形役者が一堂に会した。この会議は政治委員会と経済委員会に分かれており、私は朝海浩一郎氏と共に経済委員会に出席した。
政治委員会にも出て傍聴したが、雲つく大男ナセル大統領をネール首相が抱きかかえるようにして会場に入って来る姿、周首相がアジア諸国を一つ一つ名指して友好関係をうたった演説などが感銘深かった。
4.新長期経済成長論で「下村・大来論争」
昭和34年(1959)春、大蔵省におられた下村治氏と私との間で“成長論”をめぐって論争が起こった。いわゆる「下村・大来論争」である。経済成長計画が6・5%の成長率をとったのに対して、下村氏は、日本経済は勃興期にあるから、もっと高い成長率が可能であるという論文を発表された。私はこれに反論を書いたら、下村氏がこれに対しての反論を書いたので、3往復ぐらいの論争に発展したのだった。
大来 佐武郎 おおきた さぶろう | |
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生年月日 | 1914年11月3日 |
出生地 | 関東州大連市 (現・中国遼寧省) |
没年月日 | 1993年2月9日(78歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学工学部電気工学科 名古屋大学大学院経済学研究科 |
前職 | 逓信省官僚 外務省官僚 経済企画庁官僚 海外経済協力基金総裁 国際大学学長 総合研究開発機構研究評議会議長 |
所属政党 | (新自由クラブ→) 無所属 |
称号 | 経済学博士(名古屋大学) 正三位 勲一等旭日大綬章 1971年度マグサイサイ賞 1993年度インディラ・ガンディー賞 |
第103代 外務大臣 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年11月3日 - 1993年2月9日)は、日本の外交官、政治家、経済学者。位階は正三位。
第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。