掲載時肩書 | 自民党幹事長 |
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掲載期間 | 1978/01/01〜1978/01/31 |
出身地 | 香川県 |
生年月日 | 1910/03/12 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 高松高商 |
入社 | 大蔵省 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 密造酒、興亜院、日本育英会、外相、日中友好、財相、 |
恩師・恩人 | 加藤籐太郎・池田勇人 |
人脈 | 矢内原忠雄、菅礼之助、本田弘敏、津島寿一、黒金泰美、下村治、伊藤正義、大来佐武郎、周恩来 |
備考 | クリスチャン |
氏はこの「私の履歴書」に自民党幹事長68歳で登場された。歴代の首相経験者は、片山哲(69歳)、石橋湛山(73)、鳩山一郎(72)、岸信介(63)、田中角栄(48)、中曽根康弘(74)、福田赳夫(88)村山富市(72)、細川護熙(72)、森喜朗(75)の11名のうち、田名角栄、岸信介に次いで執筆年齢は3番目ですが、首相になる前の現役役職で登場したのは、角栄氏(幹事長)と二人だけ。
1.キリスト教受洗(高松高商時代)
私が高商に入学して間もなく、東北大学教授を辞められた佐藤定吉先生が来高し、講演「科学と宗教」をされた。キリスト教は私にとって全く無縁の世界であった。ところが、私はどうしたものか佐藤先生の論旨に感動し、その夏は浅間山麓の研修会に参加し、秋には青山の青年会館における全国大会にも出席するほど夢中になった。
私の場合は、聖書を通してキリスト教に進んだ。もっとも、洗礼を受けた観音寺の教会以外には、特定の教会と関係を持つことなく、無教会の立場に終始した。内村鑑三先生をはじめとして、その門下の塚本虎二等の諸先生の著作に親しんだ。矢内原忠雄先生には、後日東京商大に入り、自由が丘のお宅の「聖書研究会」に参加させていただき直接教えを受けた。
2.日本育英会の創設
昭和17年(1942)の夏、大蔵大臣賀屋興宣氏の命により、主計局長の植木庚子郎氏と私は、日本育英会設立に取り組んだ。実をいうと、この会創設の作業は、難航を極めたのである。
その理由の一つは、まず同会の設立目的が、いまひとつはっきりしなかった点にあった。つまり、千人に一人といわれる「英才」の育英を目標にするのか、それとも父兄の負担を軽減してできるだけ多くの学生に進学の機会を与えることを狙いとするのか、この重要な出発点があいまいであった。
私はいろいろ検討の末、国が育英事業を行う以上、本来の「給付」制(無償:少人数対象)にすべきと考えたが、貸与制(貸し付けにして多くの学生を対象)にすべきとの意見が多くなった。
最後には植木局長までが、「自分は貧しい家に生まれて、とうてい上級学校に進学できる身分ではなかった。そこで養家から一高、東大へと進学させてもらった。男が自分の姓を変えるというのはつらいことだ。しかし今の日本にも、向学心を持ちながら、貧しいために、心ならずも同じような境遇にあって進学を断念する人も多かろう。私は後進の青年のために、こうした辛酸をなめさせるには忍びない。理は理としても、出来るだけ多くの青年に、この恩恵がいきわたるよう考えよう」と切々と訴えられた。
これを聞いて、私も苦しかった学生時代を思い浮かべてすっかり参ってしまった。数理と論理一点張りで頑張ってきた私の気持ちも、雪が陽光に溶けてゆくように、給付を貸与制度に改め、対象も増やして国会に提出した。現在の日本育英会は、こうして昭和18年から発足したのである。
3.周恩来氏の人柄
私は昭和47年(1972)、49年(1974)の前後2回訪中して、そのたびごとに毛沢東主席と周恩来総理にお目にかかる機会に恵まれた。周総理は、毛主席と同様、中国に対する愛情と誇りを堅持されていたが、同時に中国の持つ後進性も正確にわきまえておられた。他国に対しても、その長所は長所として、その短所は短所として、客観的に評価することを忘れてはおられなかった。大国といえども恐れず、小国といえども侮るところは少しもなかった。
周総理はまた、人に接して極めて庶民的であられた。私どもが泊まって居るところに時折訪ねてこられたが、運転手やコックや掃除婦等に対しても、いつもにこやかに握手と挨拶を忘れなかった。また、よく人の名を知っておられた。そして、食事の席でも周総理は、周囲の人々に細心周到なサービスを忘れなかったが、交渉事は実に粘り強い手ごわい相手でした。この人は、確かに歴史の経過とともに、ますますその光を放つ人であるに違いない。
大平 正芳 おおひら まさよし | |
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内閣広報室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1910年3月12日 |
出生地 | 日本 香川県三豊郡和田村 (現・観音寺市) |
没年月日 | 1980年6月12日(70歳没) |
死没地 | 日本 東京都港区 (虎の門病院)[1] |
出身校 | 東京商科大学 (現・一橋大学) |
前職 | 大蔵省官僚 大臣秘書官 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 紺綬褒章 衆議院永年在職議員 商学士 |
配偶者 | 大平志げ子 |
親族 | 兄:大平数光(豊浜町長) 娘婿:森田一(衆議院議員) |
サイン | |
第68-69代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次大平内閣 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1978年12月7日 - 1980年6月12日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第79-80代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第2次田中角栄第1次改造内閣 第2次田中角栄第2次改造内閣 三木内閣 三木改造内閣 |
在任期間 | 1974年7月16日 - 1976年12月24日 |
第85-86・95-96代 外務大臣 | |
内閣 | 第2次池田第2次改造内閣 第3次池田内閣 第1次田中角栄内閣 第2次田中角栄内閣 第2次田中角栄第1次改造内閣 |
在任期間 | 1962年7月18日 - 1964年7月18日 1972年7月7日 - 1974年7月16日 |
第29代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1968年11月30日 - 1970年1月14日 |
第22-23代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第1次池田内閣 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1960年7月19日 - 1962年7月18日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 旧香川2区 当選回数 11回 (1952年10月1日 - 1980年5月19日) | |
第9代 自由民主党総裁 (1978年12月1日 - 1980年6月12日) | |
第19代 自由民主党幹事長 総裁:福田赳夫 (1976年12月 - 1978年12月) | |
第16代 自由民主党政務調査会長 総裁:佐藤栄作 (1967年 - 1968年) |
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年〈明治43年〉3月12日 - 1980年〈昭和55年〉6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交正常化に貢献。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、更に首相就任後も四十日抗争やハプニング解散で体力を消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。
衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第85・86・95・96代)、通商産業大臣(第29代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)を歴任。読書家、クリスチャン(聖公会)として知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。