掲載時肩書 | 名古屋鉄道社長 |
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掲載期間 | 1970/02/27〜1970/03/25 |
出身地 | 東京都本郷 |
生年月日 | 1903/06/20 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 四高 |
入社 | 名古屋鉄道 |
配偶者 | 伊賀屋納豆娘 |
主な仕事 | 愛知電鉄合併、不遇時代、労組執行委員長、名鉄百貨店、モンキーセンター、バスターミナル、明治村、名商会頭 |
恩師・恩人 | 岡本清三、須田副社長 |
人脈 | 谷口吉郎(四高)徳川夢声、渋沢敬三、石坂泰三、河合雅雄、伊谷純一郎、渋沢秀雄 |
備考 | 父・兄:医師、左遷哲学 |
明治36年(1903年)6月20日 – 昭和49年(1974年)1月27日)は東京生まれ。実業家。名古屋鉄道社長など歴任。社内では典型的な「ワンマン社長」として君臨したが、自身が「雌伏十年」と語った名鉄合併時の左遷経験から「労務管理」の重要性を早くに認識した事で、徹底した「成果平等主義」(個人の能力・貢献に応じた地位と収入)を貫いた事から人望が集まり、労働組合との関係も「労使対決」型よりも「労使協調」型を重視した「社会貢献・会社経営・社員生活」の3点揃って向上発展させる経営方針を打ち出し、現在も名鉄グループに流れる「労使一体感」の醸成に腐心した。また、文化的事業の創出に力を注ぎ、京都大学に土地と資金を提供して開設した京都大学霊長類研究所(日本モンキーパークに併設)、四高時代の級友であった建築家谷口吉郎と発案した博物館明治村など、沿線観光資源(旅客)の創出と文化事業を両立させる積極的な試みとして大きな功績を残した。
1.名鉄百貨店のカラー(特色)
鉄道会社が小田急と阪急百貨店のご協力により、百貨店を経営することになった。考えてみると私どもは全く百貨店も知らなければ商品知識もない。ただスペースを提供して商売をしてもらってマージンを頂戴する不動産業者のようなものだ。だから我々は勉強して立派な百貨店マンとならなければならない。百貨店と問屋は本当の一心同体でなければならないと考えた。
ここらあたりから名鉄百貨店のカラーが生まれた。共存共栄主義だから一品一店主義でよいだろ。例えばカバン等はマルエムさんの店に任せてしまおう。問屋さんとは共存共栄だからコーヒー一杯でも代金は折半で行こう。中元歳暮のやりとりは一切中止しよう。問屋との直接取引を止めるためには店員には給与相当額までは品物の原価販売は認めよう。元来が鉄道の分身であるから賃金に相違があってはならないが、労働時間の相違があるので鉄道給与より10%だけ高いものにしよう。外部とのお付き合いは全て名鉄でやり百貨店の負担をなくそう。名鉄従業員には5%程度の割引を承認して実際の購買をすすめよう、等。
2.犬山にモンキーセンターをオープン
日本ライン下りをする木曽川の沿岸にもかってはサルが出没していたが、鉱山化が進みサルがいなくなった。しかし京都大学の霊長類研究所グループに相談すると犬山の大平山もサルの生息は可能と言われた。
故渋沢敬三さんにサル企画を相談すると賛成してくださり、学者を集めて意見を聞くことになった。集められた学者の方々は国立公園の田村剛博士、宇都宮大学の鏑木学長、京都大学の宮地博士、東大予防研究所の安藤博士、伊谷純一郎、河合雅雄君などであったが、その席で野生動物を保護したいという鏑木博士(生かし屋)、サルを医学の実験動物にする(殺し屋)、サルの社会形態を研究する(霊長類研究グループ)、我々のように企画で儲けようとする観光屋が集まって、モンキーセンターをつくろうではないかとなった。渋沢さんは干支が五黄のサルなので会長に就任していただき、財団法人日本モンキーセンターは、昭和31年(1956)に犬山にオープンさせた。
3.明治村の創設
明治村の構想は谷口吉郎君と四高同窓会で酒を飲んでいる時に出てきた。明治村は昭和40年(1965)3月に、財団法人明治村となり博物館指定で開村となった。渋沢敬三さんに会長になっていただき、渋沢さん亡き後は石坂泰三さんに引き継いでいただいている。現在明治村には聖ヨハネ教会堂、西郷従道邸、三重県庁舎、東山梨郡役所、札幌電話交換局、品川灯台、宮島灯台付属官舎など日本の重要文化財が7つもある。1か所に重要文化財が7つもあるところはそんなにない。その他には学習院院長官舎、鴎外、漱石邸、明治天皇・皇后御料車、第四高等学校階段教室、安田銀行若松支店、長崎阿蘭陀屋敷二十五番館、佃島渡船、京都市電、歩兵第六連隊兵舎、ハワイ移民記念館、鉄道療新橋工場、山田郵便局、神戸大井肉店など数多くあり、未建築ものでは大阪呉羽座、聖フランシスコザビエル聖堂など10数棟ある。