河合雅雄 かわい まさを

学術

掲載時肩書人類学者
掲載期間2002/10/01〜2002/10/31
出身地兵庫県
生年月日1924/01/02
掲載回数30 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他新潟高
入社兵庫農大
配偶者福知山出身
主な仕事病弱、ウサギ(順位)、サル(芋)、ゴリラ、ヒヒ、遠隔測定器、霊長類研長、モンキーセンター長
恩師・恩人今西錦司 梅棹忠夫
人脈梅原猛、隼雄(5男)、伊谷純一郎、宮地伝三郎、土川 元夫、桑原武夫、西堀栄三郎
備考父歯科医 6男(3男)
論評

1924年(大正13年)1月2日 – )は兵庫県生まれ。霊長類学者、児童文学作家で理学博士。半世紀以上にわたってサルを研究。モンキー博士として知られるサル学の世界的権威。京都大学霊長類研究所所長、日本モンキーセンター所長などを歴任。サルを観察することによって進化の謎をつきとめ、人類の未来を探ることに生涯を捧げた。

1.サル学の目的
霊長類とは、ヒトとサルを含んだ分類の名称である。霊長類学とは、サル類を研究することによって人類進化の謎を解明し、人間とは何かという古来からの命題を自然科学の立場から明らかにすることを目的にしている。霊長類学は、ネズミ学やウマ学と違って、人間の学なのである。したがって、霊長類学は学問分野としては動物学ではなく、人間の一分野として位置づけされている。

2.卒論にウサギの行動をとりあげる
1学年上の伊谷純一郎さんの家から子ウサギ4匹貰って来た。篠山の自宅の裏庭に、Lグループと名付けた4匹を加え、金網棚で囲った8匹のウサギの国を作り、柿の木の上の観察小屋から毎日観察していた。
 梅棹忠夫さんが様子を見に来た。「ウサギって、何もしまへんで!」私は少々気落ちして言った。すると
「動物やさかいなぁ。そのうち何とかしょるやろ」。うずくまって日向ぼっこしている子ウサギを前に、梅棹さんはコクリコクリしはじめた。
 予言どおり異変が起きた。20日ほどたった時、突如4匹がもつれ合って追いかけっこし、2日後に大喧嘩―というよりも激しい戦いを演じたのである。戦いが終わると、4匹は仲良く集まって休息した。もう一つのLグループでも同じことが起こった。この奇妙な行動は、順位決定戦だった。動物社会を秩序付ける原理の一つは順位制である。ラビット社会では、生後50日ほどで順位が決まることが分かった。
 グループは縄張りを持つこと、ウサギはおとなしいというイメージに反し、雄どうしは相手を殺すほどの闘いを演じることも分かった。すべてが新しい発見だった。そして、この卒業論文発表は好評だった。

3.アフリカのゴリラ生態探検(激突される)
英領ウガンダのゴリラ山ムハビラ(4129m)とサビニオ(3647m)に出かけた。ゴリラの案内人として現地人を雇った。その日のゴリラの足跡を発見すると、その跡を追っていく。すると必ずゴリラの群れに遭遇する。12,13mの距離に近づくと、リーダー雄が立ち上がってドラミング(手で胸を叩く威嚇行動)をし、凄まじい咆哮を浴びせかける。初めて体験した時は魂がでんぐり返るかと思う衝撃を受けた。
 時には攻撃してくる。「逃げてはいけない。ハッタと睨め」、とガイドは言う。たしかに、2,3m手前で停まり、脅しだけで去っていく。ところが、ある日歯車が狂った。突然、リーダー雄と雌と子どもが昼寝しているのに遭遇した。驚いた雄は咆哮してまっしぐらに突進し、私たちに激突した。私は転倒して向こう脛に傷を受け、他の3人も傷を負ったが大丈夫だった。無事とわかって、みんなで笑った。森が揺らぐほど笑った。

4.風土病にかかる
アフリカの熱帯多雨林は、文字通り伏魔殿である。エボラ熱のような怪物が、まだまだ潜んでいる。私はたぶん日本人では初めてという風土病に2つかかった。
(1) ウイルスかリケッチァによる出血熱で、発疹と見たのは出血紅斑、内臓も全部出血するコンゴ出血熱。
(2) ロアロア寄生虫は3匹体内に飼育していたが、こいつは爪先から頭まで全身の皮下を移動する。毒素を排出するので、皮膚に赤い線が描かれたり、目が腫れる。丘疹ができるなどなどの症状が出る。
大学病院に入院したが、日本人は最初とかで治療に困ったらしい。完治の証明ができないと、未だに公務災害の適用を受けている。私自身は虫は退散したと思っているが、無形文化財に自薦するつもりだ。

追悼

氏は‘21年5月14日、97歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’02年10月で78歳のときであった。この時の文章は、明るくユーモアのある心温まるものでした。

1.霊長類学研究の動機
現在はマスコミを通じてサル類の行動や生態が身近に感じられるようになったのは結構なことだが、逆に、いわゆる「動物もの」として興味本位に扱われるようになり、サル学の本来の姿が遠のいてしまう恐れがある。
 元来、我が国は進化に対する興味が大変うすい。ゆとり教育に基づいて編集された高校教科書からは、進化論の項目が削除されたことは、このことの象徴的な例証である。環境、自然、文化と文明、民族など、人間存在に関わる基本的な問題は「進化」を思考の軸にしなければ、本質的なことは見えず皮相的な見解に終わるだろう。そこで、人間とは何かを、動物学を出発点として考えるには、生物の進化、人類進化を舞台にしての研究が最もふさわしいとなると、当然霊長類学に行き着くのだった。

2.自然児で育つ
幼少は病弱にもかかわらず、私は自然が好きで、体調が良い時は山、田んぼ、川などに入り浸っていた。昆虫少年で、昆虫採集に夢中になった。小5の夏休みの宿題には大作を出して褒めてもらい、学校保管になった。篠山川は最高の遊び場だった。魚獲りに呆けた。川の状態は小石の位置まで頭に入っていた。網と手掴みが得意だったが、とりわけ魚の手掴みには熱中した。
 犬やニワトリはもとより、モルモット、ゴイサギ、カジカガエル、カナヘビなどいろんな動物の飼育に興じた。近所の人からは動物園長と呼ばれていた。長じて動物学を専攻するようになった素地は十分にあった。

3.兄弟で四重奏団結成
家にはハイカラな母が師範時代に弾いていたヴァイオリンやオルガンがあり、私ら兄弟が音楽に親しむようになったのは、母の影響が大きい。戦後、兄弟によるクレー四重奏団を作った。5男隼雄がフリュート、4男迪雄がヴァイオリン、6男逸雄がヴィオラ、3男の雅雄はチェロである。練習中「待ってくれ」「助けてくれ」「こらえてくれ」の声が上がるので、「クレー演奏団」の名がついた。厚顔にもモーツアルトのフリュート四重奏などのリサイタルを開いたりした。

4.児童文学・・「動物世界の描写を楽しむ」
1973年、福音館書店の「子どもの館」が創刊された。私は草山万兎(くさやままと)のペンネームで、子供と動物との親交を第5号から10の短編として連載した。
 この雑誌では、勝手な文学的実験を自由にさせてもらった。適切な助言で巧みに誘導してくれる菅原啓州さんには感謝している。「サバンナの星」では、東アフリカの荒野に住むライオン兄弟の出生から群れ(プライドという)のリーダーになるまでの苦難の軌跡を描いた。
 「たまたまうっかり動物園」では本当に楽しみながら連載した。動物園にいる動物たちが、捕らえられたのではなくて、どうしてここにいるのかという不思議な運命を、動物と話ができる小父さんが子供たちに話して聞かせる物語である。私の児童文学は子供の館によって育てられ、上記の4編が培養器となった。

5.異分野交流
私は学生の時から、異分野の人との交流に恵まれた。その原因は京大の山の探検の伝統にある。私たちが戴く三つの巨峰は、今西錦司、桑原武夫、西堀栄三郎の三人だった。それぞれの裾野には多士済々、個性的な人々が群れていた。それらの人たちと、いつの間にか親しい交流が生まれ、自然に異分野の学問に触れる機会が多くなったのだった。

河合 雅雄
小学館『中学生の友』第38巻第9号 (1961) より
人物情報
生誕 (1924-01-02) 1924年1月2日
日本の旗 日本
死没 2021年5月14日(2021-05-14)(97歳)
出身校 京都大学
学問
研究分野 霊長類学
研究機関 京都大学霊長類研究所
学位 博士(理学)
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河合 雅雄(かわい まさを[1]1924年大正13年)1月2日 - 2021年令和3年)5月14日)は、日本の霊長類学者、児童文学作家理学博士従四位兵庫県立丹波の森公苑長、京都大学名誉教授愛知大学教授日本モンキーセンター所長(昭和62年)、日本福祉大学生涯教育研究センター名誉所長、兵庫県立人と自然の博物館名誉館長。河合隼雄の兄。著作に『少年動物誌』、『人間の由来』、『河合雅雄の動物記』(筆名は草山万兎(くさやま-まと))などがある[2][3]

「今西進化論」で知られる今西錦司の率いる京大霊長類研究グループに学生時代から参加。宮崎県幸島でニホンザルの生態を観察し、サルのイモ洗い行動を発見、世界的に有名になった。後年はゲラダヒヒの社会生態学研究に取り組み、『ゴリラ探検記』(1961年)、『ゲラダヒヒの紋章』(1978年)などを発表。文章家としても知られ、『少年動物誌』(1976年)、『人間の由来』(1992年)のほか、草山万兎という名で児童文学『ジャングル・タイム』(1985年)などを書く。

  1. ^ 「雅雄」の「雄」は、現行の中学校の教科書(学校図書入学2年)をはじめとする各著書において、「を」という歴史的仮名遣いを用いている。一方、姓の「河合」は現代仮名遣いの「かわい」。なお、弟の「隼雄」は「はやお」という現代仮名遣いを用いている。
  2. ^ 河合雅雄』 - コトバンク
  3. ^ 篠山市公式サイト - 丹波篠山の有名人 河合家の人々”. 2019年12月14日閲覧。
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