掲載時肩書 | 東京大学名誉教授 |
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掲載期間 | 2024/08/01〜2024/08/31 |
出身地 | 奈良県 |
生年月日 | 1948/04/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | プリンストン大学 |
入社 | 立教大学 |
配偶者 | 電通総研の研究員 |
主な仕事 | 米国留学、国際会議、アジア旅行、外交政策見直し、日本改造計画、東大教授、国連大使、国際大学、JICA、奈良県立大 |
恩師・恩人 | 佐藤誠三郎、三谷太一郎 |
人脈 | 舛添要一、町村信孝、三谷博、小沢一郎、蒲島郁夫、緒方貞子、岡田克也、中曾根康弘、安倍晋三 |
備考 | 祖父・父:造り酒家、町長 |
氏は政治・外交学者として五百旗頭眞(2019.2)に次いで「履歴書」に登場となった。氏がユニークなのは学者であり、研究者であり、教育者でもあったが、1992年以後、ほとんどの内閣と関係し、2004年から、特命全権大使、国際協力機構(JICA)理事長などを務め、実務の経験と内外人脈も豊富に持っていた。
1.米国に留学して
米国には必ず留学したいと思っていた。国際文化会館の新渡戸フェローシップに合格して、1981年7月から2年間、東海岸のプリンストン大学に滞在した。米国では米国のことを勉強したいと考えた。ヒントは、ジョージ・ケナンの「アメリカ外交50年」に登場するジョン・マクマリーという人物だった。極東通の外交官だった彼が35年に書いたメモには「日中戦争は必至であり、米国は必ず巻き込まれる。米国が勝利を収めるだろうが、利益を得るのは中国共産党とソ連だろう」とあった。当時の米国の極東政策において、群を抜いて優れた先見性だった。ケナンは48年に来日し、日本を弱体化させるよりも、米国のパートナーとして育成すべきだと説いた。これはマクマリーメモの影響があった。
私はプリンストン大学で学生も大学院生もやり、教師もやり、ゲストスピーカーもやり、ホストもやった。その合間に資料を読むため、ワシントンはもちろん、シカゴやウィスコンシン州などにも出かけた。
2.「日本改造計画」の策定関与
1992年から93年にかけて、最も熱心に取り組んだのは、小沢一郎氏の政策研究グループの活動で、数十人の学者と官僚を束ねて80回以上の勉強会を重ねた。その成果として完成したのが、小沢氏の名義で出版された「日本改造計画」だった。学者は、政治、経済、国際関係の3グループがあった。政治は私の他に御厨貴、飯尾潤、経済は伊藤元重、竹中平蔵、国際関係は伊藤隆敏、田中明彦の各氏らで気鋭のメンバーが参加していた。
80年代の日米貿易摩擦、冷戦終焉後の国際関係の変化、湾岸戦争時の日本外交の無為無策、バブル景気の崩壊の予兆の中で、日本の変革という使命感にみな燃えていた。私は研究会を始めた時点でまだ44歳だったが、学者グループの最年長かつ代表格だった。
また、政治改革の動きが広がっていた。東京大学の佐々木毅教授らが提唱する選挙制度改革案が注目を集めた。政界では細川護熙氏が率いる日本新党、まもなく新党さきがけとなる武村正義のグループなどが活発に動いていた。とはいえ、自民党政権を崩壊に追い込んだ中心人物はやはり小沢氏である。「日本改造計画」は93年春には完成していたが、小沢氏の指示でしばらく倉庫に置かれ、衆議院解散と同時に発売された、絶好のタイミングをじっと狙っていたのである。
自民党を飛び出し、政権獲得に近いとされた小沢氏が、国連のもとでの平和維持活動(PKO)などでは憲法の制約を受けない、強いリーダーシップを持つ政権をつくり、消費税10%を目指す、と訴えたことは内外の関心を呼び、多くの支持を得た。しかし自民党は直後の衆議院選挙で過半数を得られず、細川氏を首班とする8党派連立政権が成立した。小選挙区制度を軸とする新しい選挙制度が導入され、大改革された。
「日本改造計画」の原稿が完成すると、小沢氏からの連絡はぱったりと途絶えた。その後の接触もない。あの本に関わった私たちは、せっかく作った政策から小沢氏が離れていくのを残念な気持ちで眺めていた。
3.国連大使に就く
2001年秋、「民間人を大使に起用したい」と考えた田中真紀子外相が私に接触してきた。何度かやり取りし、国連の次席大使(正式には特命全権大使、国連代表部次席代表)に04年4月に就任した。次席大使公邸に住んだ。少々古いが、国連本部まで徒歩で10分の便利なところにあった。多忙なVIPを朝食に招くこともでき、緒方貞子さんには何度も来ていただいた。
国連はとても会議が多い。日本のような大国(当時の国連分担金は19・5%で、米国の22%に次ぐ2位だった)が関係する会議が山のようにあった。05年1月からは安全保障理事会の非常任理事になったので、さらに増えた。04年後半から1年あまりは安保理改革に全力で取り組んだので、会議、会談、面談、懇談、ランチ、ディナー、レセプションと目の回るような忙しさだった。
妻はよくサポートしてくれた。公邸で頻繁にパーティを開いたが、料理人が2人、バトラー(執事)もいる常駐代表と異なり、次席は料理人が一人でバトラーはいない。妻は自ら車を運転して、花やワインの買い出しにあちこち走り回ってくれた。
4.集団的自衛権は行使限定的解除へと提言
安倍晋三首相のもとで、いろいろな仕事をした。2012年に発足した第二次政権で、安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)がある。私たちの立場は明確で、主権国家である以上、自衛のための必要最小限度の自衛力を持つのは当然であるとまず考えた。しかし政府は1972年頃から、集団的自衛権は必要最小限度の自衛を超えるので、行使できないという憲法解釈をとっていた。
これは誤りだと考えた。大国ならば単独で自国を守れるが、中小国は守れない。それゆえ他国と連携して守り合うのであって、その基礎が集団的自衛権である。集団的自衛権を保持し、行使することは必要最小限度の自衛の範囲であり、その行使は憲法上可能だというのが、私たちの意見だった。提言を基にして、安倍首相は集団的自衛権の行使は部分的に可能という憲法解釈を7月の閣議で決定した。翌15年、野党の猛烈な反対を乗り越え、新解釈に基づく平和安全保障法を成立させた。
5.国際協力機構(JICA)理事長として
2015年10月、JICAの理事長に任命された。旧国際協力銀行(JBIC)の経済協力部門と統合して08年10月に誕生した新JICAの初代理事長は緒方貞子さん、二代目は田中明彦さんである。三代目の私は、途中辞任された田中さんの残り任期ともう一期の合計6年半を務めた。
JICAは政府開発援助(ODA)の実施に際して中心となる機関である。日本のODAは1990年代後半までの約10年間、金額では世界一だった。しかし、日本経済の停滞もあって、その後は16年連続で減り、ピークの半分くらいになっていた。最初の課題は、その増額だった。私は永田町と霞が関を駆け巡った。在任中は少しずつだったが、毎年増加させた。
JICAの大きな仕事はインフラの建設である。世界で定評を得ていたが、近年は苦戦していた。理事長に就任直前、インドネシアの新幹線事業で中国に競り負けた。対抗してインフラ輸出を強化する動きが政府内に出てきた。そこでインフラ4原則を定めた。
重要な順は第一に、相手国に真に役立つもの。第二に、日本とその国との関係強化に資するもの。第三に、日本企業が受注しやすいもの。第四に、JICAの財務に無理のないもの、である。つまり、インフラ建設では、日本企業の受注を過度に優先させて、相手国の信頼を失ってはならない、ということである。また、地下鉄や通勤電車を重視した。途上国では、富裕層は運転手付きの高級車に乗り、貧しい人はボロボロの満員バスに乗る。公共交通機関の整備は、自動車の増加を抑え、都市の混雑回避、かつ温暖化対策でも有効である。JICAの新しいヴィジョンを「信頼で世界をつなぐ」と定めた。これはJICAの伝統でもある。これをはっきりと言葉にして、名刺に印刷した。
JICAで最も自慢できるのは人材である。すぐれた大学の学部や大学院で学び、あるいは社会人経験を経て入ってくる職員の質は年々上がっている。大手企業、官庁、国際組織に出して恥ずかしくない人材がゴロゴロいる。給与は公務員準拠なので高くないが、やりがいのある仕事なので、それを求めてやってくる。今や、若手課長の4割は女性である。今年は一般公募を経て副理事長にJICA内部の女性が任命された。JICAのジェンダーバランスは、日本でもトップクラスにあると自負している。
人物情報 | |
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生誕 | 1948年4月20日(76歳) 日本・奈良県吉野郡吉野町 |
出身校 | 東京大学(学士、修士、博士) |
配偶者 | 鈴木りえこ |
学問 | |
研究分野 | 日本政治史、日本外交史、政軍関係、政党、政治指導、日米関係、国連 |
研究機関 | 立教大学 東京大学 |
学位 | 法学博士(東京大学、1976年) |
主要な作品 | 『日本陸軍と大陸政策』 『清沢洌』 『自民党』 『独立自尊』 |
影響を受けた人物 | 佐藤誠三郎、林茂、三谷太一郎 |
主な受賞歴 | 吉田茂賞(1986年) サントリー学芸賞(1987年) 読売論壇賞(1992年) 吉野作造賞(1995年) 紫綬褒章(2011年) パラグアイ国家功労勲章(2019年) |
公式サイト | |
www |
北岡 伸一(きたおか しんいち、1948年〈昭和23年〉4月20日 - )は、日本の政治学者、歴史学者。奈良県立大学理事長、政策研究大学院大学客員教授、東京大学名誉教授、立教大学名誉教授。学位は法学博士(東京大学・1976年)[1]。専門は日本政治外交史。