五百籏頭眞 いおきべ まこと

学術

掲載時肩書政治外交史家
掲載期間2019/02/01〜2019/02/28
出身地兵庫県
生年月日1943/12/16
掲載回数27 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他六甲学院
入社広島大助手
配偶者猪木教授仲人
主な仕事石原莞爾調査、神戸大、歴代首相諮問、防衛大校長、復興構想会議、熊本県立大、兵庫県立大
恩師・恩人猪木・高坂教授
人脈ライシャワー、ボートン、楠田実、梅棹忠夫、高坂正堯、山本正、牛尾治朗、御厨貴、
備考父:神戸大教授
論評

学者は数多くこの「履歴書」に登場しているが、氏は歴代首相(佐藤~安倍)の政治・外交のブレーンの一人として登場した初めての人物のように思える。氏の恩師である京都大学の猪木正道教授や高坂正堯教授も歴代首相の政治・外交のブレーンだったと思いますが、この「履歴書」には登場していない。また、氏は阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本大震災の3つの大震災を経験し、いずれも災害復興対応の指揮を執ったので「地震男」とも呼ばれた。

1.「石原莞爾」研究で認められる
氏が学者として学会で認められる下地は、恩師・猪木教授から「石原莞爾」研究をテーマに与えられ、山形県庄内に住む親族を訪ねたことだった。これにより「ただ刊行された先行研究や資料を読みふけるだけでなく、現地に自ら赴き、関係者からジカに話を聞いて文書の行間をうずめる」実証的歴史家となったのだった。この経験がのちの「戦後日本の国際環境」調査で渡米者の栄誉を得ることになる。そして米国の国立公文書館で日本の「戦後計画文書」を見つける。これは米国の知日派と政府高官が激論を繰り広げ、陸海軍とのすり合わせを経て、ついには大統領の決裁を受ける最高の文書であり、ここには戦後日本誕生の秘密が生々しく語られていた。その最たる発見が、明確な日本分割占領案だった。その内容は、連合国として北海道と東北はソ連、関東から関西の本州中心部は米国、中国と九州は英国、四国は中国というものであった。この発見に学会のボスからクレームもついたが、現地に足を運んで実物を検証した証拠文書を学会で発表することで、氏の高い評価が以後得られることとなった。

2.「21世紀日本の構想」を提言
小渕首相の時、氏は「21世紀日本の構想」懇談会で、「日本はどう生くべきか」の重要3項目を提言した。①日本が国際秩序を支える国になることだ。資源のない島国日本は自由な貿易を生存の条件とする。戦後日本は国際社会の覇者ではなく、世話役になるべきだ。②日本は民の力を高めることだ。官僚制は日本の近代化に大きな役割を果たしたが、成熟社会はすべてを官が仕切るのではなく、多くを民に委ね、民も公共の担い手となる。③若い世代に国際レベルの人材を育てることだ、と。この3項目はこの提言から20年過ぎても、立派に当てはまり政府の外交にも内政にも遵守し行動しているように思える。特に今は③を急がねばならない。

3.妻と「惜別の歌」
氏が東日本大震災の復興構想会議議長、防衛大校長の激務をこなし退任後に、4歳下の夫人がすい臓がんで倒れた。末期のがんを告げる主治医に、妻は涙と感情を抑え、静かに質問した。「いつ頃まで生きられますか」。医師は「神様にしかわかりませんが、早ければ半年かもしれません」。妻は二、三の質問の後、言った。「ほかの家族でなく、 私でよかったと思います」。
 その後、5人の子供たちと一緒に代わる代わる感謝の4月間を看病する。ある夜、夫人が氏に一緒に歌って欲しいという。「月の砂漠」を歌った後、「惜別の歌」となった。「遠き別れに耐えかねて」を歌い、3番「君がさやけき目の色も、君紅のくちびるも」のあと、夫人の声が止まった。「もう碧の黒髪じゃないもん」と涙していたというくだりは、私(吉田)も氏と一緒に泣いていた。

追悼

氏は、2024年3月6日、80歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は19年2月の75歳のときでした。氏の訃報を知ったとき、一番私(吉田)の脳裏に浮かんだのは、奥様との「惜別の歌」著述でした。

1.冒頭は、下記の「震災体験から生まれた後の人生」でした。
ガーンと体ごと跳ねあがる大衝撃をくらい、目を覚ました。飛行機が墜落したのか、山津波か・・・。次の瞬間、猛烈な揺れ。地震だ・・・。
 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分。生まれ故郷、兵庫県西宮市のわが家での阪神・淡路大震災との遭遇であった。当時私は51歳、神戸大学法学部の教授として政治外交史などを講じていた。夜が明けて外を見ると、南にそびえていた社長さんの豪邸が倒壊し消えていた。わが家の下にも亀裂が入り、最大25cm移動し傾いたが、何とか倒壊は免れた。家族全員が2階のベッドで寝ていたことから家具による被災も免れ、幸運にもみな無事だった。
 しかし、神戸大の学生39人を含め、故郷の地に6534人もの犠牲を強いた大震災だった。深い悲しみと怒りを禁じえなかった。弔い合戦の思いが、私の生き方をいささか変えた。二度とこのような悲劇を許してはならない。災害にこんな脆い社会であってはならない。「わが人生の時」は将来にあると、私は漠然と感じてのんびり生きてきた。が、人生は今日切断されるかもしれないのだ。針の先ほどの偶然で生死を分かれる体験が、今を生きることの重さを教えた。

*日本経済新聞 3月8日の「評伝」 五百旗頭氏死去 深い識見、政策に昇華
6日死去した五百旗頭真氏は外交政策や人材育成、震災復興などで多くの政権や行政と関わりを持ち、政策提言してきた。学者の枠を超えた活動を支えたのは、間近に接した先達への尊敬と学びだった。
米国の対日占領政策の研究でハーバード大で在外研修していた当時に影響を受けたのは駐日米大使も務めたライシャワー教授だった。カーター政権に対日理解を促す手紙を書く姿をみた。
五百旗頭氏は「公的責任を担う学者のあり方が強く印象に残った」と語っていた。
京都大の恩師で政治学者の猪木正道氏も防衛大学校長を務めた。占領研究への道を開いてくれた高坂正堯氏は政権のブレーンとして活躍した。
防大校長への就任や外交政策への関わりは、蓄積した識見を具体的な政策に役立てなければならないという五百旗頭氏なりの「公的責任を担う」活動の一環だったように思える。
もっとも数々の震災復興への関与は自身が選んだものではなかった。阪神大震災で自宅が全壊、神戸大のゼミ生を失った体験は「私の生き方を変えた」と言明した。
東日本大震災で復興構想会議の議長、熊本県立大理事長に就任した後に起きた熊本地震で復興有識者会議の座長に就いた。ひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長も含め、後半生は震災との関わりが多くなった。地震や津波、豪雨など多くの災害に見舞われてきた日本の歴史を振り返り、自身が支援を受けた経験を伝えた。結束して苦難に立ち向かうこと、皆が助け合う国民共同体のような意識が必要だと説いた。「災害にもろい社会であってはならない」と繰り返していた姿が思い浮かぶ。(堀田昇吾)

五百籏頭 眞
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
人物情報
生誕 五百籏頭 眞(いおきべ まこと)
(1943-12-16) 1943年12月16日
日本の旗 兵庫県西宮市
死没 (2024-03-06) 2024年3月6日(80歳没)
日本の旗 兵庫県神戸市
病死(急性大動脈解離
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学法学部卒業
京都大学大学院法学研究科修士課程修了
両親 五百籏頭眞治郎(神戸大学名誉教授)
子供 五百籏頭薫(東京大学教授)
学問
研究分野 政治学
歴史学
研究機関 広島大学
神戸大学
防衛大学校
博士課程
指導学生
井上正也(慶應義塾大学教授)
服部龍二(中央大学教授)
簑原俊洋(神戸大学教授)
村井良太(駒澤大学教授)
ロバート・D・エルドリッヂ(元在沖縄米軍海兵隊外交政策部次長)
主な業績米国の日本占領政策』の執筆
日米戦争と戦後日本』の執筆
占領期』の執筆
主な受賞歴 サントリー学芸賞1985年
吉田茂賞1990年1999年
吉野作造賞1998年
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五百籏頭 眞(いおきべ まこと、1943年昭和18年〉12月16日 - 2024年令和6年〉3月6日[1])は、日本政治学者歴史学者(日本政治外交史)。国際問題評論家。

学位法学博士京都大学1987年)。専門は日本政治外交史、政策過程論、日米関係論。 公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長、前兵庫県公立大学法人理事長神戸大学名誉教授防衛大学校名誉教授、熊本県立大学特別栄誉教授文化功労者

の「籏」は「旗」の異体字の「眞」は「真」の旧字体であるため、五百籏頭 真五百旗頭 眞五百旗頭 真とも表記される。

  1. ^ 政治学者の五百旗頭真さん死去 元防衛大学校長、震災復興の政策提言”. 朝日新聞デジタル (2024年3月7日). 2024年3月7日閲覧。
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