中嶋常幸 なかじま つねゆき

スポーツ

掲載時肩書プロゴルファー
掲載期間2019/07/01〜2019/07/31
出身地群馬県
生年月日1954/10/20
掲載回数30 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他
入社22歳プロ
配偶者恋愛クリスチャン
主な仕事masters,全英、全米、全米プロにtop10、1日3千発、キカイダー、サイボーグ、日本7冠、ジュニア教育、
恩師・恩人父親
人脈A・パーマー、J・ニクラス、セベ・バレステロス、羽川豊、倉本昌弘、青木功、尾崎将司、
備考父スパルタ
論評

プロゴルファーでこの「履歴書」に登場したのは、宮本留吉(1983)、ジャック・ニクラウス(2006)、青木功(2010)、岡本綾子(2013)、トム・ワトソン(2014)、樋口久子(2016)に次いで中嶋が7番目である。そこで、世界ゴルフ殿堂にも青木、尾崎、樋口、岡本は入っているが中嶋は入っていない理由を探った。

1.自殺未遂19歳(スパルタ親父への反発)
昔ゴルフは「ブルジョアのスポーツ」と言われていた。ところが、わが家は裕福ではない。父は借金を抱え、家も土地も自分のものではなかった。ひもじい思いや、貧しさは感じなかったけれど、刺身はペロッと一切れを口に入れるのではなく3等分に切り分けて食べたり、山で自然薯や山菜を採っておかずにしたり、生活は質素だった。渡良瀬川近くの広沢ゴルフ練習場では、24球入った木箱を10箱頼むと毒島さんというおばさんが厚意でもう10箱くれた。ゴルフを続けられたのは親戚や周囲の人たちの支援のお蔭だ。一日3千球打とうがきついトレーニングをしようが練習が辛いと思ったことはない。
 しかし親父の鉄拳制裁を伴うスパルタ教育には反発も強かった。ベン・アルダが勝った73年の日本オープン(大阪・茨木CC)では、旅館から電話すると「説明しろ」。1番ホールの1打から、いちいち怒鳴られながら延々3時間。その間何人ものプロが外出し、帰って来ても帳場の電話口にいた。 
 弥平おじさんとタクシーで帰京する途中、死んでやろうと思い、東京の薬局に寄り「よく眠れないから」と睡眠導入剤を購入した。ガソリンスタンドでガバッと一飲みするが、水道の水がよく出ず、薬はどろどろ。しばらくしたら弥平おじさんに「気持ちが悪い」と言って、意識を失った。
 病院に運ばれ、胃洗浄して2,3日寝込んだ。目が覚めた私に、父が最初に言った言葉は「情けない!」。胸にグサリと刺さった。自殺は未遂に終わり、運良く死ななかったけれど、「こんな親父のために二度と死のうとは思うまい。今に見てろよ。絶対ゴルフで見返してしてやる」と心に誓った。

2.優勝するにはコースマネジメントが大切
78年マスターズの予選落ちから、ショットの精度向上という課題に取り組み、ようやく答えを出せたのが81年だった。11月のダンロップフェニックス(宮崎・フェニックス)ではマスターズ王者のせベ・バレステロスと優勝争いをした。世界の強豪が集い、しかも特異なコースではない。私は初日から「グリーンのセンターを攻める」ことに徹した。最終日、2打差の2位で迎えた18番(パー5)でも、右ラフから第2打を花道に刻む。
 「なぜ2オンを狙わないのか」といぶかられたが、試合で大事なのは、自らのゲームプランをいかに貫くかだ。「花道から寄せてバーディを狙えばいい」。自分が考えたコースマネジメントを4日間、徹頭徹尾できた。

3.30代の肉体の衰え対処
初めて賞金王になったのは28歳。だが20代と30代の体は違う。肉体的にまず感じたのは、スイングで股関節に体重がうまく乗らなくなったことだ。体が詰まるというか。スイングがずれる。股関節がスムーズに動かないからしわ寄せで上半身に負担がかかり、肩甲骨もうまく動かなくなる。いつもとは違う動きを上半身でしなければいけなくなり、ハタと困った。
 そこに道具の変化というダブルパンチが加わる。ドライバーの「メタルブーム」到来だ。ジャンボ尾崎選手はいち早く87年にはメタルドライバーを打ちこなすようになったが、パーシモン(柿の木)ヘッドでゴルフを覚えた私には、メタルは異形のクラブ。メタルドライバーをパーシモンの感覚で手首を使ってクラブをしならせて打つと、ボールが右にスパーンと出る。つかまえようとすれば、左に大きく曲がる「チーピン」だ。リストワークがいらないメタルの打ち方が分からなかった。「パーシモン世代」は一苦労。メタル・チタン時代の到来により、ボールを操る天才セベ・バレステロスなど淘汰された選手は少なくない。

4.AONの到来(青木さん、尾崎さんに追いつきたい)
アマチュアでプロの試合に出始めた頃、私の親父の口癖は「青木、尾崎に負けるな」だった。断トツの存在で、ゴルフ界は二人を中心に動いていた。青木さんは一回りも上だし、ジャンボとも7つ離れている。世代的には本当ならライバルにはなりえない。同世代には天才肌の尾崎健夫選手、倉本昌弘選手がいたが、親父から「そんなことで青木、尾崎に勝てるか」などといつも発破をかけられていたので、AOは特別存在。
 青木さんはアプローチ、パットが得意で「100ヤード以内は世界一」といわれ日本刀のような「切れ味」だ。ジャンボはギリシャ人やローマ人が持つような剣。切るだけでなく、叩くことも刺すことも、何でもできる「力」を感じる。青木さんに負けないよう小技を磨こう、ジャンボの飛ばしに負けによう、飛距離アップしようという気持ちは、自分のテーマとして常にあった。青木さんの100ヤード以内のショット、ジャンボのロングショットが100点だとすると、私はどっちも満点はとれない。ただゴルフは総合力。全てを80点以上に上げ、バランスのとれたオールラウンドプレーヤーになれば、十分勝つチャンスがあると考えていた。
 「ジャンボ1強時代」に入る前、73年から86年までの14年間で「ON」以外で賞金王になったのは、村上隆さん、84年の前田新作さんの二人だけ。85年から92年の8年間で、日本オープンは全て「AON」が優勝している。

5.若手精鋭プロの育成(トミーアカデミー)
90年代に若手育成のためのミニツアー「トミー・チャレンジ」を年5,6試合開催したりもした。2007年から2011年まで若手精鋭プロの育成を目的としたジャパンゴルフツアー・チャレンジトーナメント「静ヒルズトミーカップ」を開催した。2012年にはジュニアゴルファー育成のために『ヒルズゴルフ トミーアカデミー』を設立し、グリップ、アドレス、テークバックなどゴルフの基本を徹底的に繰り返し教えた。柔道整復師やトレーナーなどスタッフも大勢いて、3日間の合宿を年4回ほど行っている。金曜日の夕方に集合し食事、ミーティング、夜間練習。翌日は夏場なら朝6時から夜9時半まで練習やラウンド、トレーニングとメニューがみっちり。
うれしかったのは、そこから2期生の蛭田みな美選手が14年の日本女子アマで、15年には山口すず夏選手が全米オープンに出場、16,17年には畑岡奈紗選手が日本女子オープンを2年連続優勝、米ツアーで3勝する実績となった。今後は女子だけでなく、世界に通用する男子選手も育ててみたい。

 中嶋 常幸 
Tsuneyuki NAKAJIMA
基本情報
名前 中嶋 常幸
生年月日 (1954-10-20) 1954年10月20日(70歳)
身長 180 cm (5 ft 11 in)
体重 80 kg (176 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県
経歴
プロ勝利数 55
日本ツアー 48 (歴代3位)
他ツアー 7
メジャー選手権最高成績
マスターズ 8位タイ: 1986
PGA選手権 3位: 1988
全米オープン 9位タイ: 1987
全英オープン 8位タイ: 1986
成績
初優勝 1976年ゴルフダイジェストトーナメント
賞金王 1982年1983年1985年1986年
世界ランク最高位 4位(日本人歴代2位)
賞金ランク最高位 日本男子:1位(4回)
殿堂表彰者
選出年 2019年
選出部門 プレーヤー
2019年1月24日現在
テンプレートを表示

中嶋 常幸(なかじま つねゆき、本名及び旧登録名:中島 常幸[読み同じ]、1954年10月20日 - )は、群馬県出身のプロゴルファー。愛称は「トミー」。

ライバルの青木功尾崎将司(ジャンボ)とともに日本男子プロゴルフ界を代表する名選手で、3人の姓を合わせて「AON時代」を築いた。日本ゴルフツアー通算48勝は歴代3位である。

[ 前のページに戻る ]