宮本留吉 みやもと とめきち

スポーツ

掲載時肩書プロゴルファー
掲載期間1983/08/14〜1983/09/09
出身地兵庫県
生年月日1902/09/25
掲載回数27 回
執筆時年齢81 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社家事豆腐 手伝い
配偶者広岡氏推薦娘
主な仕事少年時六甲キャディ、広岡別荘番、茨木cc専属プロ、プロ選手権、ハワイ遠征、米武者修行、英殿下と、クラブ製造
恩師・恩人赤星六郎師、Wへーゲン師
人脈佐藤満、広岡九右衛門、福井覚治、安田幸吉、浅見緑蔵、摂津茂和、戸田藤一郎、中村寅吉、B/ハーロー氏、青木功
備考J・サラゼンとの旧交
論評

1902年9月25日 – 1985年12月13日)は兵庫県うまれ。元プロゴルファー。1925年に茨木カントリー倶楽部でプロとなり、1926年に日本最古のプロトーナメント・日本プロの第1回大会で優勝。第二次世界大戦後は50歳の時に銀座に室内練習場を備えたゴルフ用品販売店「フェアウェー」を開店し、自宅ではクラブ造りの工房を始める。当時、ゴルフがブームになりかけた頃で、日本オープン6勝の宮本が造る「トム・ミヤモト」ブランドのクラブは人気であった。ドライバーで1年待ちは当たり前で、オーダーされてもすぐ造ることはせず、客のスイングを自らチェックして客の体格、技量に合ったクラブを造っていた。

1.第1回日本プロ選手権
私がプロになった大正の末期には、まだプロのトーナメントはなかった。プロの仕事は、一般の人を教えたり、道路を修理することだけである。倶楽部のメンバーが桜花杯、菊花杯、キャプテン杯、理事長杯などと名付けた試合を楽しんでいても、自分たちには縁のないものだと思っていた。すると一緒にラウンドしていた大阪毎日の運動部長・豊川良之助さんが、同じ会社の主幹である高石真五郎さんに相談して、プロの大会を開くことにしてくれた。
 大正15年(1926)7月10日に茨木ゴルフ俱楽部で第1回の「日本プロ選手権」が行われた。参加者は安田幸吉、巽一雄、福井寛治、越道政吉、村上伝二と私の6人。試合は36ホールで行われ、私と福井さんが161の同スコアでトップに並んだ。プレーオフは7打差で私の優勝となった。賞金はなかった。

2.師ウォルター・へーゲンから学ぶ
ハワイ遠征した翌年の昭和5年(1930)に、ウォルター・へーゲンとジョー・カークウッドが来日した。私は一緒にラウンドをしたが、へーゲンの球筋は見惚れるほどだった。ドライバーなどの飛距離は私とそんなに変わらない。しかし、アイアンで打つボールは低く出てグリーンにぴたりと止まる。力強さも全然違うのだ。
 彼がスイングする時は、いつもじっと見つめていたが、動きが速いので肝心のところがよくわからなかった。しかし最後にラウンドした程ヶ谷で、ゆっくり打ったショートアプローチの時に「ははぁ、これだな」と了解できた。インパクトでは左手の甲の角度をほとんど変えず、フィニッシュは低い。そう思ってみると、ロングアイアンさえフィニッシュは高くならない。へーゲンの球筋の秘密はここにあると感じた。それからは、へーゲンが各コースでどんな打ち方をしたかを思い浮かべ、練習場では、それを自分のスイングに再現してみる。ほどなく、へーゲンのような、低く出てよく止まるボールが打てるようになった。

3.球聖ボビー・ジョーンズから5ドルの勲章
昭和7年(1932)の米国遠征の長旅に疲れてホテルに着き、エレベーターの前に立っていた。エレベーターが降りて来てドアが開くと、何と出てきたのがボビー・ジョーンズだった。ちょうどジャック・ニクラウスのような目つきの鋭いのが印象的だったが、ふっくらとした面長の柔和な顔立ちであった。
 翌日の午後、ジョーンズとのエキシビションマッチのためコースに行くと、いままで見たこともないような数の車が並んでいる。みなジョーンズを見に来ていたのだ。スタートする段になってジョーンズのほかにバークとメルホンも来ているのを知った。二人だけの対戦かと思っていたが、4人によるエキシビションマッチだ。
 まず、ジョーンズが1番のティーショットをまっすぐ260ヤード(約235m)飛ばした。私はいい当たりでジョーンズのボールの真横に止まった。「やるな」といった感じで私の左腕を掴み「かけようか、5ドル」となり、応諾する。アウトではジョーンズに対し1ダウンだったが、インの18番。ここは450ヤードの長いミドルホールだ。私が5mほどアウトドライブし、ジョーンズはバッフィーで打ったが手前のバンカーへ。結局、私が2アップで勝ちとなった。ロッカールームでジョーンズは「ヘイ、トム(私)」と、いたずらっぽい表情で私を睨み、5ドル紙幣をくれた。友人がサインを貰っておいた方が良いとの助言で、彼からこの紙幣にサインしてもらった。日本ゴルフ協会設立に尽力された摂津茂和さんは「この5ドルは10万ドルの価値がある」といった。

 宮本 留吉 
Tomekichi MIYAMOTO
基本情報
名前 宮本 留吉
生年月日 (1902-09-25) 1902年9月25日
没年月日 (1985-12-13) 1985年12月13日(83歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
経歴
プロ転向 1925年
成績
優勝回数 レギュラー:18回
殿堂表彰者
選出年 2012年
2020年4月11日現在
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宮本 留吉(みやもと とめきち、1902年9月25日 - 1985年12月13日)は、兵庫県出身の元プロゴルファー

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