青木功 あおき いさお

スポーツ

掲載時肩書プロゴルファー
掲載期間2010/02/01〜2010/02/28
出身地千葉県
生年月日1942/08/31
掲載回数27 回
執筆時年齢68 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社都民ゴルフ場
配偶者再婚同士
主な仕事我孫子キャディ、プロ、賞金王、全米2位、 ハワイ優勝、米シニアツアー、殿堂入り、
恩師・恩人林由郎, 岡副鐵雄、田辺嘉一
人脈鷹巣南雄、本田宗一郎、井深大、五島昇、松井功、小佐野栄、大西久光、金田正一、王貞治、尾崎将司、中部銀次郎、坪内寿夫、野田順弘
備考殿堂入り:nice Speech
論評

1942年8月31日 – )は千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司(ジャンボ)、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位。2004年、日本人男性として初の世界ゴルフ殿堂入り。日本人初の米国PGAツアー(ハワイアン・オープン)での優勝は、最終日・最終ホールでピンまでの距離128ヤードのショットでチップインイーグルを決めて、2位に1打差の勝利であった。1打差でリードしたままホールアウトしたジャック・レナーがスコアカードを提出しているさなかの奇跡の逆転であった。

1.ギャンブル好き
1964年10月に東京オリンピックが開かれた。その6月、22歳でプロに合格して何か未来が大きく開かれたような気がした。しかしもともとギャンブルは嫌いではない。飯能ゴルフ倶楽部に移ったころ競輪にはまった。オケラになって痛飲したことは数知れない。西武園や近い競輪場には足繁く通い詰めた。もしこの3万円を負けたら借金しようと思った。昔からでたらめ買いが多い。4-4とか2-4とか4-2とか、この時4-4だったと思う。5千円買ったら4千円以上の穴車券となった。後先のことは考えない性格だ。ゴルフ雑誌に「青木は、競輪、競馬で金をつくってプロになった」と書かれていたが、まんざら嘘ではなかった。プロになった優越感だけが先行して粗削りの飛ばし屋というネーミングはいいが、成績も鳴かず飛ばずで、ムシャクシャして酒やギャンブルに溺れて、二日酔いの頭を抱えていた。それを田辺嘉一さんが救ってくれた。

2.全米オープンでジャック・ニクラウスと死闘
1980年の全米オープン初日で憧れのニクラウスとジーン・リトラーの3人で回ることになった。7076ヤード、パー70のこのタフなコース(米ニュージャージー州バルタスロールGC)で初日、ジャックが63,私は68で回った。2日目も私がまた68で回るとトップのジャックが71で2打差となった。同組で決勝ラウンドに進んでまたまた68。ジャックは70。3日間戦ってジャックも私も6アンダーだ。何と4日間ともジャックと回ることになった。「ほんとかよ、おい」であった。スコアボード上の日の丸が大平首相の訃報で半旗になっていた。
 いよいよ最終日、最終18番、私がサンドウェッジで放った第3打があわや入りそうになりカップをかすめた。ジャックも肝を冷やしたと思う。あの時、イーグルが入っていたら私はあの群衆に踏みつぶされていたのではないかとさえ思った。それほどジャックファンは熱狂的だった。そしてジャックが3mのバーディパットを入れた。もうギャラリーが「ジャックバック、ジャックバック」と大歓声をあげながら押し寄せてきた。その時、ジャックは押し寄せる群衆に対して両手をパっと挙げて押しとどめた。私はこの混乱の中で最後の1mパットをしっかり決めた。後ろの掲示板に「ジャック・イズ・バック」と出ていた。ジャックは40歳の限界説を乗り越えた2年ぶりの勝利に群衆から本当の祝福の嵐が巻き起こった。

3.世界ゴルフ殿堂入りスピーチ
2004年11月、米フロリダ州のセント・オーガスティン会場で式典が行われた。グレグ・ノーマンに紹介され感謝の気持ちを述べる。世界中のファンやトーナメントのボランティアの皆さん、自分を生んでくれた両親やこれまで支えてくれた多くのスポンサー企業に深甚の感謝の言葉を続け、そして「ワイフのチエ」が最大の理解者であり献身的な努力を続けて来てくれたと紹介した。そして「サム・スニードはこの世界で勝てないものは3つある。雷とベン・ホーガンと下りのパットだと言ったそうです。私にとって下りのパットはさほど怖くはありませんが、ジャックとチエには未だ勝てません」。ここでドッと沸き、笑いに包まれた。最後に、付け加えたのは、「私の我がままでマミーまで独占して寂しい思いをさせてしまった娘ジョエンに」と言いながら涙が落ちそうになった。何とかこらえて「アイ・ラブ・ジョエン」と語りかけた。

 青木 功 
Isao AOKI
2019年5月25日撮影
基本情報
名前 青木 功
生年月日 (1942-08-31) 1942年8月31日(81歳)
身長 180 cm (5 ft 11 in)
体重 80 kg (176 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県我孫子市
経歴
プロ勝利数 78
優勝数
PGAツアー 1
ヨーロッパ 1
日本ツアー 51 (歴代2位)[1]
チャンピオン 9
他ツアー 16
メジャー選手権最高成績
マスターズ 16位: 1985
PGA選手権 4位タイ: 1981
全米オープン 2位: 1980
全英オープン 7位タイ: 1978, 1979, 1988
受賞
日本ツアー賞金王 1976, 1978, 1979, 1980, 1981
成績
優勝回数 通算85勝 <国内シニア9勝・海外シニア9勝・海外グランドシニア3勝>
初優勝 日本男子: 関東プロ (1971年)
米国男子: ハワイアン・オープン (1983年)
賞金ランク最高位 日本男子: 1位 (5度)
米国男子: 34位 (1983)
殿堂表彰者
選出年 2004年
選出部門 国際投票
殿堂表彰者
選出年 2013年
選出部門 プレーヤー
2012年9月23日現在
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青木 功(あおき いさお、1942年8月31日[2] - )は、千葉県我孫子市[2]出身のプロゴルファー日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司(ジャンボ)、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位[1]

  1. ^ a b ツアー勝利数ランキング”. 日本ゴルフツアー機構. 2019年5月26日閲覧。
  2. ^ a b 市制施行50周年記念 青木功さん、上橋菜穂子さんを名誉市民に決定”. www.city.abiko.chiba.jp. 我孫子市. 2023年1月19日閲覧。
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