金森久雄 かなもり ひさお

ジャーナリスト

掲載時肩書エコノミスト
掲載期間2004/09/01〜2004/09/30
出身地東京都
生年月日1924/04/05
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他浦和高
入社商工省
配偶者東大教授娘
主な仕事経企庁、英国留学、日本経済研究センター、前川リポート、環日本海経済研究所
恩師・恩人高橋亀吉
人脈柳谷謙介(小)、佐伯喜一、中山伊知郎、都留重人、大来佐武郎、下村治、篠原三代平、香西泰
備考父:国務大臣
論評

1924年4月5日 – 2018年9月15日)は東京生まれ。元経済官僚、経済評論家。経済企画庁経済研究所次長、日本経済研究センター理事長を経て、1987年同会長。2000年から2005年まで景気循環学会会長。日本経済研究センター顧問。1987年『男の選択』で日本エッセイストクラブ賞受賞。金森徳次郎は実父、地震学者の金森博雄は実弟。

1.経済企画室でケインズ学を勉強
戦後私は商工省に入ったが、しばらくして、経済計画室に配属となった。ここに来て驚いた。普通の官庁の組織の様ではない。一応班が決まっているが各人が勝手に行動している。トップは佐伯喜一さんである。後で有名になった人だけ挙げても鉱工班には林雄二郎氏がいて、その下に宮崎勇氏がいた。交通班には原田昇左右氏がいた。国土班には下河辺淳氏がいた。農業班には小島正興氏がいた。こういう人をうまくまとめ上げたのは佐伯さんの人柄である。私はまだ何も知らないのに貿易班長にされた。何をやるかというと、短期、長期の経済見通しが主な仕事である。
 当時(1950)、朝鮮戦争が始まり、特需が経済に大きな影響を与えていた。特需が供給を増やし不況をもたらすのではないかという説が国民経済を中心として主張されていた。私は特需の分析をするところからケインズ経済に熱を入れるようになった。マルクスの理論では資本主義は駄目になるというのだから自分の仕事とそぐわない。自由主義の経済では放っておけば経済はうまくいくというのであるからこれも困る。
 ケインズこそ一段高い所から経済を見渡して引き締めたり、刺激したり時に応じて関与することが大事だと教えてくれる。これこそが自分の経済学だと考えて、夢中になって勉強した。

2.石油危機への対応論争
1973年3月、大来佐武郎氏が海外経済協力基金総裁に任命され、日本経済研究センターの理事長を辞めることになり、私が理事長を継ぐことになった。この年には石油危機が起きた。石油輸出国機構(OPEC)の石油戦略により石油の供給に不安が生じ、原油の価格が4倍に引き上げられた。国内ではトイレットペーパーや洗剤等が買えなくなった。このときの日本人の不安は大変なものであった。
 福田赳夫さんは蔵相として徹底的な財政・金融の引き締めでこれに臨んだ。74年には国内総生産(GDP)はマイナス0・5%と戦後初めてのマイナスとなった。私の高度成長論も修正しなければならなくなった。この時もっとも議論を急激に変えて人を驚かせたのは、下村治氏であり、ゼロ成長論を主張した。原油の供給増が望めないのだから、日本の成長もゼロにしなければならないという主張である。私は竹中一雄氏とそれに反対して、石油価格の高騰は石油節約という産業構造の変化を引き起こすと論じて7%ぐらいの成長は可能であるといった。
 現実には驚くべき産業構造の変化が発生した。石油多消費型のアルミ精錬業は姿を消した。石油少消費型のエレクトロニクスやコンピュータ、通信機器、耐久消費財、自動車は高成長した。原油を増やさずに成長ができた。日本経済の適応力は大変なものであった。75年は4%成長を回復し、その後もその程度の成長を90年まで続けた。しかし下村さんはゼロ成長論を終生変えなかった。

3.高橋亀吉氏と煙草
私は1987年に日本経済研究センターの理事長を辞めて会長となった。この間に、教えを受けたエコノミストに高橋亀吉氏がいる。高橋さんは若い頃に「経済学の実際知識」という名著がある。私が生まれた年に書かれた本だ。私は大学の時、これを古本屋で見つけて買い、学校では教わらない現実の経済の見方を学んだ。高橋さんの経済を見る目は現実に即しており、それを一流の論理で分析する。そして高橋さんには明治以来の経済史についての深い学識がある。私の論文でも2,3引用した。高橋さんは歴史を知っていても、それにとらわれることなく、昔はこうであったが、今は違うというように歴史を使うことが多かった。
 雑誌で何度も対談をした。高橋さんは健康のために煙草を持たないことにしていた。吸いたいときには人に貰う、そうすれば遠慮があるからそうは貰えない。自然に量が減るというのが高橋さんの論理であった。ところが論理と実際とは食い違った。始めは遠慮がちに「金森さん、タバコを1本くれませんか」というが、議論が熱してくると「金森さん、煙草、煙草」の連続である。こうして対談が終わるまでには幾箱のまれただろうか。経済の論理は首尾一貫していても、煙草の論理は違う。
 下村治さんに、日本で一番尊敬する経済学者は誰ですかと質問したことがる。それは「高橋さんです」というのが下村さんの答えであった。私と同様でうれしかった。

追悼

氏は’18年9月15日に94歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2004年9月で80歳のときであった。エコノミスト、経済学者、経済評論家としてこの「履歴書」に登場したのは、他に小倉武一高橋亀吉吉野俊彦東畑誠一宇沢弘文青木昌彦篠原三代平木内信胤の8人である。氏は高橋亀吉氏を尊敬し現実に即した見方を学んだと書いていた。父親の金森徳次郎氏も1958年7月にこの「履歴書」に登場している親子二代である。

氏は戦後日本を代表する強気派のエコノミストだった。どんな危機に面しても、日本経済の成長力がいかに強いかを説き続けた。池田内閣の所得倍増計画はエコノミストの下村治氏と同調し経済白書でも強調した。しかし、73年の第一次石油危機時には、強気派の双璧をなす下村氏がゼロ成長論にくら替えし、原油供給が見込めないなら成長はゼロにすべきだとした。しかし、氏は省エネが産業構造の変化を起こし成長は続くと反論した。結果はその後の景気回復とエネルギー効率の改善が氏の予想通りになった。

氏の「履歴書」を読み直して面白く感じたのは、日本経済研究所の次長になった時、その所長は後に文化勲章受章された一橋大学の篠原三代平氏であった。金森氏は「これは少し都合が悪い。篠原氏は私の敬愛する先生であるが、景気の見方は私とは違っていた。篠原さんの説では景気は10年とか、50年とか、ある程度の規則性をもって循環するというものである。私はそのような規則性を信じない」とある。新聞記者が来て景気の見通しについて意見を聞いてくると、「衝立を隔てて篠原さんと私の話す言葉は筒抜けである。お互いに反対の意見をしゃべった」と。お互い持論を展開したのだから良いとして、取材した記者はどのように記事にしたのでしょうね。興味深いものです。

金森 久雄(かなもり ひさお、1924年4月5日 - 2018年9月15日[1])は、日本の経済官僚経済評論家

  1. ^ 金森久雄氏が死去 元日本経済研究センター理事長 日本経済新聞、2018年9月19日
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