吉野俊彦 よしの としひこ

行政・司法

掲載時肩書山一證券(研)特別顧問
掲載期間1992/10/01〜1992/10/31
出身地東京都
生年月日1915/07/04
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他武蔵
入社日銀
配偶者見合妻:父鉄道次官、
主な仕事岡山支店、調査局33年、経済安定本部 、下村治氏と論争、森鴎外論、山一経済研究所
恩師・恩人岡野敬次郎(母兄)、一万田尚
人脈石坂泰三(父友)、橋本凝胤、中山伊知郎、山本米治、和田博雄、佐々木直(不仲)、宇佐美洵、高橋亀吉
備考母父:満鉄総裁、父(逓信省局長)
論評

1915年7月4日 – 2005年8月12日)は千葉県生まれ。日本銀行理事。日本銀行に入行する。日銀では調査局に勤め、内国調査課長、局次長、局長を経て1970年に理事に就任した。1974年に山一證券経済研究所理事長に転じ、1984年に会長、1985年に特別顧問となり1998年まで務めた。吉野は安定成長論者で、高度成長論者である下村治と論争をおこなった。経済学、金融史のほか、後半生は森鷗外研究でも知られ、晩年は永井荷風について書いた。多数の著作がある。父は逓信官僚の吉野圭三。

1.岡野敬次郎(母の兄)の人物
本家の当主岡野敬次郎は、私の父母が見合いをしたころは、東京帝国大学法科教授のほか法制局長官でもあったが、結婚後間もなく大学教授はそのままながら、行政裁判所長官に転じ、やがて司法大臣(加藤友三郎内閣)、文部大臣(山本権兵衛内閣)に任ぜられるので、夜帰宅後はたまにしか会わなかった。
 岡野は帝国大学法科大学における最初の商法専攻の学者であり、日本の商法の起草者でもあったが、農商務省の勅任参事官を兼務したのが始まりで、法制局長官を3度も務め、各省大臣になり、遂に政治家になってしまった。

2.日銀の初任給
昭和13年(1938)日本銀行に入ったが、数か月後に岡山支店勤務を命ぜられた。よく遊び、料亭にも行った。ちなみに当時の宴会の費用を分析すると、会席(十数皿)3円、酒1本20銭、10本として2円、芸妓の花代お線香3本(2時間)1円50銭、二時間を超えるとよそからもらいがかかったのを断わるという理由で倍の3円であったから、4時間遊んでも10円あれば足りる。日銀の初任給は当時よそが70円くらいなのに、100円と日本一高く、下宿代が月40円で済んだので、自力で料亭に行く余裕は十分にあった。

3.下村治氏と論争
下村氏と直接論争を展開するようになったのは、昭和28年(1953)、大蔵省を代表する日銀の政策委員に任命された時からで、計画的金利低下論を展開した彼と、調査局内国調査課長の資格で政策委員会に呼ばれた私と、その席上で激しい応酬を交わした。そしてそのころから下村氏は高度成長論を展開し始め、それがやがて昭和35年(1960)の所得倍増計画となって現れる。私は物価の安定と経常収支の均衡を阻害しない限りは協力するが、この2つの条件を満たさない事態が生ずる場合は、成長率を鈍化させる必要があると念を押した。私の立場が「安定成長論」であることは、多言を要しない。

4.森鴎外研究(挫折に直面して第二のライフワーク)
私の所属する日銀調査局は現業局と異なり、総裁がこれを活用すると否とにより、その地位は著しく変化する。山際総裁のあと、佐々木直氏が理事、副総裁と累進するに及んで、私は日銀を辞任する場合も想定し、真の生きがいとは何かを考えざるを得ない状態に追い込まれた。そしてこの時、ハタと念頭に浮かんだのが森鴎外という偉大な先人だったのである。 
 鴎外は明治32年(1899)の小倉転勤となったとき、自らを左遷と受け止め、当初は怒りにもだえた。やがて気を取り直し、「即興詩人」の翻訳完成、仏教への沈潜、過去の日記の読み直しなど、他日に備えて大変な勉強をし、それが後の豊熟の時代の基礎になったからだ。
 私の鴎外研究は、挫折に直面した時それから立ち直るためのバネとして始まったもので、今も変わらない。「森鴎外と石川啄木」では啄木が最初鴎外を尊敬していたのになぜ自らはなれていったか、これに対し「森鷗外と永井荷風」では、荷風はなぜ終生鷗外を尊敬したか、また鴎外はなぜフランスから帰りたての若い文学者荷風を辞を低くして慶應義塾の教授就任をすすめたかは、最近の私の主要テーマなのである。

吉野 俊彦(よしの としひこ、1915年7月4日 - 2005年8月12日)は、日本銀行理事。父は逓信官僚の吉野圭三

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