掲載時肩書 | 漫才師 |
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掲載期間 | 2022/10/01〜2022/10/31 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1946/07/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 自動車整備工場 |
配偶者 | 女優・ヘレン |
主な仕事 | 大やけど、吉本興業、やす・きよコンビ、パンチDEデート、参議院議員、花王名人劇場、介護保険制度、慰問、 |
恩師・恩人 | 白木みのる、澤田隆治 |
人脈 | 石井均、横山やすし、桂三枝、笑福亭仁鶴、芳村真理、生恵幸子、浜村淳、渡哲也、桂米朝、 |
備考 | 慰問歴50年 |
西川きよし(漫才師)2022年10月登場
この「履歴書」で落語家は三遊亭円生、柳家小さん、桂米朝、桂三枝の4人が、そしてコメディアンとして萩本欽一が出ているが、漫才師としては最初である。氏は落語などの伝統芸能に比べれば「漫才はしょせん時間つなぎ」と一段低く見られていた芸を、文化功労章を貰うことで漫才の評価を上げたことになる。
1.漫才はつなぎの芸
寄席の世界で漫才は古くから「つなぎの芸」とみられてきた。よく言えば漫才は融通が利く。演じる時間の長短を調整し、次の出演者の出番まで客席が冷めないよう時間を稼ぐのに向いている。この特徴を生かせたのが、ラジオやテレビの世界だ。ぶっつけ本番の生放送が主流だから、漫才師の才能が重宝された。
一方で、話芸をじっくり聞かせる落語などの伝統芸能に比べれば「漫才はしょせん時間つなぎ」と一段低く見られていた。確かに伝統芸能は、蓄積された演目が森のように豊かな茂みを作っている。落語など、あらすじは承知の上で「あの噺を誰々の話芸で聞きたい」と、演目と演者の取り合わせにむしろ鑑賞の妙味が置かれる。そこが伝統芸能の伝統芸能たる所以だろう。落語だけではない。歌舞伎や人形浄瑠璃、狂言や能など、実際に上演されるのは書き下ろした新作より、むしろ古典演目の方が圧倒的に多い。このため演者は基礎となる型を修めるべく長い修業を積む。系譜を身につけ、「何代目○○」と名称を襲名するのも、伝統の一環だ。
そこへ行くと、漫才師は一代限り。他の漫才コンビの持ちネタをそっくり借用するなどしない。固有の持ち味だけが勝負の、裸一貫の芸だ。笑いの下敷き代わりに使う世相も、移り変わりが激しいから、賞味期限も長くない。しかし今回の文化功労章をいただくことで大衆芸能に晴れて光が当たったのがうれしい。
2.杉本ヘレンとの結婚
二人が出会ったとき、ヘレンは売れっ子の看板女優で、CMにも起用され、吉本興業にとってドル箱スターだった。彼女の話をよく聞くと、米国人だった父は、ヘレンが生まれる前に帰国していた。このためヘレンは父親の顔を見たことがなく、母子家庭で育った。父に甘えるとはどんなことか、わからないという。それにもまして容姿で苦労していた。青い眼に金髪という身体的特徴は、戦災の記憶も生々しい敗戦国にとって、西洋への憧れより、むしろ難しい感情をかき立てていた。
遊び場では常に虐めっ子の餌食だった。ブランコや滑り台などの順番をおとなしく待っていると、いざ自分の番という時に突き飛ばされて「お前はアメリカの滑り台に行け」。繰り返し虐められるので泣いていた。結婚前に身の上話を打ち明け合うと、私の家の貧しさなど比べ物にならない境遇の違いに打ちのめされた。この女性を幸せにするのが、自分の使命なのだと思うようになった。
3.高齢者介護の体験
大阪府箕面市の自宅は、妻ヘレンの母、私の両親が同居し、3人の子のほか、住み込みの弟子などを含め、一時は最多で14人が暮らす大所帯だった。3人の親は既に亡くなったが、老年期を共に過ごしたのは、いい勉強になった。まず義理の母と同居し、1年後に両親を迎えた。主婦が3人、一つ屋根の下に暮らすことに。こうなると決まって起きるのが騒動だ。
鍋のしまいどころ、洗濯の仕方、干し方、たたみ方に風呂の洗い方。3人の主婦はそれぞれが自分のやり方を主張して譲らない。見かねて「裁判官」の私が割って入り、妻ヘレンは台所、母・清意は庭掃除、義母・百合は洗濯、と担当を分けて受け持たせた。
二人の母は、家事に口出しするのを次第に遠慮するようになったが、今度は父も含め、高齢者特有のわがままと甘えが目立つようになった。病気になれば病院に連れて行く、粗相をすれば後始末をする。入浴やトイレの介助も頻度が上がっていく。介護には休みがない。一つひとつの介護作業は造作なくできても、365日休みなしだと、どんな人も心が折れそうになる。この高齢者介護の現場では、日本の女性たち、嫁が、妻が、そして娘が、なぜかひとえに負担を強いられがちだ。これらの現場をよく知ることで、参議院議員になり、高齢者介護に役立つ介護保険法の成立(1997年)に寄与できたのはうれしい。
4.横山やすしさん
1996年1月21日、相方の横山やすしさんが肝臓がんで亡くなった、享年51。やすしさんは漫才に打ち込む一途さが半端でなかった。集中のあまり、凝ってしまいがちな神経をほぐそうと、気晴らしの趣味をいくつか持っていた。プラモデルを作ればそれがデパートなどで模範展示されるほど手先は器用だったし、日舞を習っていた素地からユーモラスな振り付けを考え出して笑わせるのも得意だった。
米国では小型飛行機を1機衝動買いした。なかでもモーターボートは自身のレーシングチームを率いてレースに参加するほどのめり込んだ。ボートレースではまだ、やす・きよ人気が盤石でもないころ、公開収録番組をすっぽかしたことがある。ある日「キー坊、頼みがある」と例の調子。広島県の宮島でどうしても出場したいアマチュアのボートレースがあるという。「彼は遅れて来る」とディレクターを騙して、やすしさん抜きで番組収録を終えた。ところがやすしさんはこの日のレースで優勝し、翌日のスポーツ紙一面を堂々と飾ってしまった。ウソがばれて、二人とも会社から大目玉を食らった。
やることなすことが八方破れで突拍子もなく、時に道を外れる。確かに出番のすっぽかしはプロの芸人に許されることではない。ただ、やすしさんは何をしでかしても、どこか憎めない何かを持っていた。ファンは独特の感情でそんなやすしさんの無鉄砲に、期待と落胆を重ねて上方の芸人らしさを見ていたのかもしれない。
5.お笑い慰問で高齢者生き生き
芸人として慰問を続けて50年以上になる。人生幸朗・生恵幸子さんに連れて行ってもらったのが最初だ。慰問は、個人的にあくまでボランティアの一環として続けてきた。参議院議員時代も休まなかったので、いつの間にか古株になった。
訪れる先は主に矯正施設や高齢者施設。高齢者施設は特別養護老人ホーム、介護老人保健施設など様々だ。私の場合、妻のヘレンや息子、時には孫も一緒に連れだって訪問する。キーボードやドラム、ギターなど小編成バンドによる生演奏付きだ。お年寄り一人ひとりに語りかけ、時にマイクを向けて歌を一緒に歌う。すると表情を取戻して生き生きと笑い出す。いつも接している施設スタッフの方が驚くほどだ。
相手の懐に抵抗なく入っていけるお笑い芸人のコミュニケーション力は、介護の世界とも相性がいいようだ。くつろぎと笑いで、施設内の空気も変化する。レクリエーション介護士という資格があり、吉本興業でも若手芸人で30人以上が資格を持っている。
第96回あしなが学生募金街頭活動(2018年4月28日) | |
本名 | 西川 潔(読み同じ) |
ニックネーム |
きよし師匠 |
生年月日 | 1946年7月2日(78歳) |
出身地 | 日本・高知県高知市 |
血液型 | O型 |
身長 | 165 cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 大阪弁 |
最終学歴 | 大阪市立三稜中学校 |
師匠 | 石井均 |
出身 | 吉本新喜劇 |
コンビ名 | 横山やすし・西川きよし(解散) |
相方 | |
芸風 | 漫才(ツッコミ) |
事務所 | 吉本興業 |
活動時期 | 1963年 - |
過去の代表番組 | |
他の活動 | |
配偶者 | 西川ヘレン |
親族 | |
弟子 |
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西川きよし | |
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生年月日 | 1946年7月2日(78歳) |
出生地 | 高知県高知市 |
出身校 | 大阪市立三稜中学校卒業 |
前職 | 漫才師 |
現職 | お笑い芸人 |
所属政党 | 第二院クラブ |
称号 | ロード(シーランド公国) 旭日重光章(2016年)[1] 文化功労者(2020年) |
配偶者 | |
選挙区 | 大阪府選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1986年7月8日 - 2004年7月25日 |
西川 きよし(にしかわ きよし、1946年〈昭和21年〉7月2日 - )は、日本の漫才師、お笑いタレント、司会者、政治家。元参議院議員(3期)、文化功労者。高知県高知市朝倉生まれ、大阪市港区住吉区育ち。血液型O型。吉本興業所属。本名は西川 潔(読み同じ)[2]。5人姉弟の次男(姉3人、兄1人)。妻はタレントの西川ヘレン、長男は俳優の西川忠志、次男は元俳優の西川弘志、長女はタレントの西川かの子。