掲載時肩書 | 紀伊国屋書店社長 |
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掲載期間 | 1976/08/24〜1976/09/17 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1905/02/12 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予 |
入社 | 紀伊国屋 創業22歳 |
配偶者 | 小笠原敏子21歳 |
主な仕事 | 孟母三遷、「アルト、文芸都市」、演劇ホール、「書店利潤改善」、米支店2、演劇賞、著書多数、フランス勲章 |
恩師・恩人 | 古沢安二郎、高見順 |
人脈 | 舟橋聖一(小学)相馬愛蔵、池田弥三郎、東郷青児、松原治、佐々木久子、石本美由紀、杉村春子、梶山季之、大島渚 |
備考 | 粋人 、レコード、著書17冊 |
1905年2月12日 – 1981年12月11日は、東京府(現:東京都新宿区)出身の出版事業家、文化人。1927年1月、新宿にて紀伊國屋書店を創業する。1928年、小学校の同級生だった舟橋聖一たちと共に、同人誌『文芸都市』を創刊。戦災で大きな被害を受け、一時は廃業も考えたが、将棋仲間だった角川源義の励ましで事業を再開。1946年1月に法人化し、株式会社紀伊國屋書店に改組。それに伴って、同社代表取締役社長に就任。1950年、陸軍主計中尉あがりの松原治を経営陣に迎え、初めて経営が安定する。
1.三田・慶応時代
私はハイカラで名門校の私立高千穂中学では、本を読むより、片っ端から買いためた。だから、あまり読んでいない。幸い、三田へ入ってからは、学校の勉強なんかしたことはない。買いためていた本を読んだ。それは、「ゲーテ全集」「英米文学双書」「近代劇大系」「古典劇大系」等々、そのほか、教育哲学、婦人問題などにも興味があって、ペスタロッチ、フレーベル、エレン・ケイ、ベーベルなどの翻訳書も読んだ。
出席率は、良い方ではなかったが、4年間の学窓生活で、私は良い教授陣にも巡り合った。印象に残っている先生方は、小泉信三、三淵忠彦、佐原六郎、三辺金蔵、高城仙次郎などの諸先生である。小泉先生には、経済原論の講義を伺ったが、レクラム文庫を手にされ、花形学究の観があった。卒業後、いろいろお親しくしていただき、戦争中の昭和19年(1944)8月、私の父の葬儀にも参列してくださった。そのほか、校庭や廊下では、久保田万太郎、小島政二郎さんたちの風姿も見かけた。
2.紀伊国屋書店の開店
大正15年(1926)の春、私は慶応専門部を卒業した。ご大典の日、父に連れられて、日本橋3丁目の赤レンガ丸善ビルの2階に上がった。窓から見物に飽きて、私がふと眼をやると、洋書の棚にピカピカした本がいっぱい。私はそれが気に入った。「これ有る哉」と思ったのである。父は私の本屋志望を喜ばなかった。私は一人息子で立派に炭屋という家業があるためである。私を支持した母は亡くなっていた。嘘も方便だと思った。私は父に向っていった。母の遺志だと言った。母は死ぬとき「きっと本屋になるんだよ!」と私に誓わせた、と言ったのである。この書店開業のため、半日間銀座の近藤書店に見習い奉公したのだった。
翌年昭和2年(1927)1月22日に開店。家業炭屋の店の大通りに面した、間口3間、奥行き6間、木造2階建てを新築した。階下は、書籍売り場と応接室、それに階段下が、事務机1つ、奥に便所、2畳の着換室。2階を、新趣向としてギャラリーとした。働く人は、私以外に、番頭、女子店員2人、小僧一人、の計5人であった。
3.私の経営信条
(1)書店を志した動機は、本が好きというより、書店風景が好きなのであった。だからギャラリーやサロンも。
(2)経営は、だいたい社員に任せている。私はもっぱら、宣伝に回っていると言っていい。
(3)事業運営は、資金繰りほか一切、松原治専務がこれを取り仕切っている。むろん大きい相談はあるが、日常的の一切は、松原君のところで裁決される。
(4)人事のことは、あまり省力化的検討を加えない。大型店進出に必要なのは人だから、これが役立った。
もう一つ、自分の口から言うのはおかしいが、私は社長をとして割合、嘘のない生活をしていることである。嘘のない人間なんて、この世にいないが、私は割合、そういう生活をしている。
私は深夜、ひそかに目覚めて考えるとき、私の今日は何なんだろうと思うが、そういうとき、私は念力ということを考える。念力だけが、私の今日をつくったのだと思っている。