松原治 まつばら おさむ

商業

掲載時肩書紀伊国屋書店会長
掲載期間2004/02/01〜2004/02/29
出身地千葉県
生年月日1917/10/07
掲載回数28 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他浪速高
入社満鉄
配偶者遠縁娘(日本女子大)
主な仕事満鉄、陸軍経理学校、塩業、紀伊国屋、全国展開、ホール、演劇賞、米国進出、東南アジア
恩師・恩人亀井玆建、田辺茂一
人脈中学(直木三十五・三好達治)、山村雄一、東大(鳩山威一郎・中曽根康弘)、野間省一、角川源義、前川國男、小林米三、朝田静夫、佐治敬三
備考父軍人・ 仏勲章
論評

1917年〈大正6年〉10月7日 – 2012年〈平成24年〉1月3日)は千葉県生まれ。実業家。大学卒業後は南満洲鉄道に入社するも召集を受け、陸軍経理学校を首席卒業。中国各地を転戦し、陸軍主計中尉として太平洋戦争の敗戦を迎える。復員後、1946年、大蔵省の子会社の日本塩業に取締役業務部長として入社。1950年、東大の先輩の亀井茲建の招きで紀伊國屋書店に入社。大番頭として田辺茂一を補佐し、紀伊國屋書店の事業拡大に貢献した。紀伊國屋書店名誉会長などを務めた。

1.田辺茂一さん
紀伊國屋書店の創業者、田辺茂一に初めて会ったのは昭和25年(1950)5月だった。田辺は大学、軍隊、日本塩業を通じて、見たことも付き合ったこともない人物だった。初対面の時、田辺は44歳。私は田辺のひとまわり下で32歳だった。飲み方は違ったが、二人とも酒量は相当なものだった。人生観を聞くと、「僕は経済も経営も分からないし、分かろうとも思わない。女性を通じて社会を理解することがライフワークだ」と言う。こんなことを言う人は初めてだった。
 ただ坊ちゃん育ちゆえだろうか、天衣無縫で私利私欲に走ることがない。度量が広く腹の据わった人物だと思った。何か天命のようなものを感じて、この人と一緒にやってみようと思った。私が入社したときの紀伊國屋は資本金300万円で、年商9千200万円、利益は185万円だった。社員は約60人いた。
 田辺が出社するのは、朝10時ごろだった。田辺が出てくると、私は15分から30分くらい様々な報告をする。今、お金を借りる交渉をしているとか、営業にかかわることとか、一切を報告した。文壇との付き合いや冠婚葬祭など対外的なものはほとんどすべて、田辺がやっていた。式やパーティは遅くても夜の8時か9時に終わるから、その後、銀座、赤坂、六本木に繰り出す。そのうち、出社時間は段々遅くなり昼頃となった。
 私が前日のことを報告すると、田辺は前夜のことを30分から1時間近くも話した。お通夜に行って誰にあったとか、誰と飲んだという話である。だから銀座、赤坂、六本木界隈の情報は行かなくても分かるほどだ。昼ご飯を二人で食べ、午後2時ごろに会社に戻ると、4時ぐらいまで昼寝をするのが田辺の習慣だった。そうしないと、とても体がもたない。艶聞は絶えることなく、特に夜の街では知らない人が少ないくらい有名人だった。行きつけのバーで冷やかされても、田辺はニヤリと笑ってうれしそうな顔をするから、相手は貫禄負けしてしまって、それ以上は何も言えない。そんな具合に、田辺と私は昼と夜を役割分担していた。

2.全国展開
昭和30年〈1955〉には平年作の前年を3割も上回る史上初の豊作と相まって、出版界も前年来の新書ブーム、週刊誌ブーム、漫画ブームで、出版点数が増えた。石原慎太郎の「太陽の季節」が発表され、岩波書店「広辞苑」や平凡社「世界大百科事典」が出版されたのもこの年だった。紀伊国屋書店も出版事業を再開し、エドモンド・ヒラリー著「ヒマラヤの男」を刊行した。
 26年以降に本格化した洋書の輸入は、貿易収支の悪化、30年の大幅改善によって大きな環境変化を受けながらも、順調に売上高を伸ばしていった。30年になっても、店舗はまだ東京以外にはなかったが、31年に大阪、32年には札幌、仙台、広島、福岡、さらに34年には京都、35年には富山と相次いで営業所を設置した。札幌の場合、4年前の28年から駐在事務所を置いていた。それらを拠点にして、営業の社員が大学や研究所を回って需要を開拓するのである。洋書だけでなく、専門書の注文もあった。
「もはや『戦後』ではない」。昭和31年の経済白書はそう書いた。国際収支が大幅な黒字を記録し、日本経済は高度成長への道を歩み始めていた。全国的に映画館・デパートの建築ブームが起き、31年2月には「週刊新潮」が創刊されて週刊誌文化が花開いた。

3.紀伊國屋ホールと演劇賞の創設
昭和39年〈1964〉3月、地上9階、地下2階、延べ床面積約3千560坪の新宿本店が完成した。しかし、建設のために借りた資金は売上高の2倍を超す40億円。借金の塊のようなものであった。少しでも負担を軽くしようと地下1階、地上1階を飲食店や洋品店に貸し、さらに7階から上をオフィスとして弁護士事務所などに貸すことが決まっていた。紀伊國屋が使える延べ面積は半分以下しかなかった。
 売り場の他に紀伊國屋らしいものをつくりたい。建築家・前川國男さんが発案したのがホールだった。ビルの4階半分を使い、客席は426席(現在は418席)。大き過ぎず、かといって小さすぎず。あまりない規模の劇場だった。若者が集まる新宿という地の利に加え、書店の中にある演劇ホールというユニークさが徐々に注目を集めるようになった。
 紀伊國屋演劇賞を創設したのは昭和41年〈1966〉だった。せっかくホールができたのだから、記念に何か賞のようなものは考えられないだろうか。といって文学賞では商売に近すぎる。あれこれ話すうち、一番報われていないのが演劇人だということになって、賞が決まった。
 対象を新劇に絞り、若手や中堅を励ます賞にしようということになった。1月から12月までの間に、東京で上演される演劇公演を審査する。審査員をお願いしたのは演劇評論家の尾崎宏次、茨木憲、作家戸板康二、評論家奥野健男の4氏に、社長の田辺と私が加わり、審査した。団体賞と個人賞があり、これまでの38年間に団体賞34,個人賞199を数える。副賞の賞金は最初、団体賞で30万円だった。現在は200万円になったが、使い道はさまざまである。一夜盛大にパーティをする劇団、劇団の「雨漏り修理」に使う劇団、団員が5万円ずつ分ける劇団もあった。

松原 治(まつばら おさむ、1917年大正6年〉10月7日 - 2012年平成24年〉1月3日)は、日本実業家紀伊國屋書店名誉会長などを務めた。

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