掲載時肩書 | 衆院議長 |
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掲載期間 | 2004/12/01〜2004/12/31 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1937/01/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大高 |
入社 | 丸紅 |
配偶者 | 二代目伊藤忠兵衛・孫娘 |
主な仕事 | 新自由ク、復党、官房長官、河野談話、総裁、自社さ連立政権、衆院議長 |
恩師・恩人 | 安岡正篤、宮沢喜一 |
人脈 | 田川誠一、牛尾治朗、山中貞則、西岡武夫、藤波孝、谷川和穂、盛田昭夫、佐治敬三、村山富一、森喜朗、 |
備考 | 河野謙三(父の弟)、父67歳死 |
1937年〈昭和12年〉1月15日 – )は神奈川県生まれ。政治家。衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第123・128-131代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(第1・3代)を歴任。2003年(平成15年)から2009年(平成21年)まで日本憲政史上最長(当時)の期間にわたって衆議院議長を務めた。副総理兼国務大臣(東京五輪担当)、農林大臣、建設大臣等を務めた党人派の実力者だった元衆議院議員の河野一郎は父。元参議院議長の河野謙三は叔父。自由民主党広報本部長で衆議院議員の河野太郎は長男。
1.新自由クラブの結成と復党
金権政治、密室の派閥たらいまわし後継総裁決め、などを若手議員は憤り、また私は「非核三原則」の政策綱領草案作りの挫折もあり、党改革はできないと諦め、1976年6月25日に有志と一緒に正式に自民党を離党し、新党の新自由クラブを結成した。メンバーは衆院が私、中川誠一、西岡武夫、山口敏夫、小林正已、それに参院の有田一寿さんの6人で、政権与党から離れ、野党になったのである。
私が代表、西岡さんが幹事長、山口君が国対委員長になった。田中角栄さんに挨拶に行くと、「しっかりやれ。一つだけ君らに教えてやる。とにかく6人しかいないのだから、毎日、朝昼晩と一緒に飯を食え。出来るだけ一緒に居ろ」。これが角さんの助言だった。この言葉は後々、身に沁みて痛感したのだった。そして、10年後の1986年、党内分裂の責任党首として復党を決断し、解党を主導したのだった。
2.従軍慰安婦問題(河野談話)
復党した後、宮澤喜一さんが宮沢派に私を迎え入れてくれた。1991年11月に宮沢内閣が発足し、翌92年12月に内閣改造があり、私は加藤紘一君の後を継いで官房長官に就任した。官房長官として最後の仕事は、従軍慰安婦問題をめぐる官房長官談話の発表だった。談話の内容の中で私は、「従軍慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたりいやしがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と謝罪した。これは宮沢内閣発足直後の91年12月から調査を始め、翌92年7月に1回目の調査報告を公表していた。宮沢内閣としてぎりぎりの段階で、慰安婦問題に一区切りをつけることができた。この談話に、その後、厳しい批判も受けているが、歴史の審判を仰ぎたい。
3.自社さ連立政権の発足(首相にはならず)
1993年7月30日の両院議員総会で、私は第16代自民党総裁に選ばれた。自民党総裁になった時に「1年ぐらいのうちに政権に復帰する」と宣言した。チャンスは意外に早く訪れた。野党自民党の予算委員会での破壊力は強烈で、佐川急便スキャンダルで細川護熙首相が辞任し、後継の羽田孜内閣も短期間で総辞職した。党内には、当然第一党の自民党総裁の私に首相指名選挙に出ろという声はあった。しかし、それでは非自民連合の候補には勝てない。そこで社会党の村山党首と私が話し合うことになった。
私は「今日の政治の混乱を収拾するのは第一党の役目だが、第一党だけで出来ない以上、第二党と一緒にやるべきだ。私が首相候補では社会党はまとまらないでしょう。あなたがやれば私は命懸けで自民党内をまとめます」と率直に語った。村山富市さんは「社会党はまとまるだろうか」と不安そうだったが、野坂浩賢国対委員長が「だめなものもいるだろうが、まとめましょう」と答えて、ついに村山さんも折れた。
村山さんを擁立するために、自民党内の様々なパイプがあったのは確かだろう。ただ自民党の総裁が私でなければ、おそらく実現しなかったという自負はある。村山、河野、武村正義さきがけ代表という3人の組合せは、まさに天の配剤だった。
河野 洋平 こうの ようへい | |
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2008年4月、衆議院議長公邸にて | |
生年月日 | 1937年1月15日(87歳) |
出生地 | 日本 神奈川県平塚市 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部経済学科 |
前職 | 丸紅飯田社員 ニチリョウ代表取締役社長 日本陸上競技連盟会長 |
所属政党 | (自由民主党(中曽根派)→) (新自由クラブ→) 自由民主党(宮澤派→河野G[注釈 1]→無所属) |
称号 | 桐花大綬章 衆議院永年在職議員 経済学士(早稲田大学・1959年) |
子女 | 河野太郎(長男) |
親族 | 河野治平(祖父) 河野一郎(父) 河野謙三(叔父) 田川誠一(従兄) |
公式サイト | 河野洋平WEB(2009年3月28日時点のアーカイブ) |
第71-72代 衆議院議長 | |
在任期間 | 2003年11月19日 - 2009年7月21日 |
天皇 | 明仁 |
第118・123-125代 外務大臣 | |
内閣 | 村山内閣 村山改造内閣 小渕第2次改造内閣 第1次森内閣 第2次森内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編前) 第2次森改造内閣(中央省庁再編後) |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1996年1月11日 1999年10月5日 - 2001年4月26日 |
内閣 | 村山内閣 村山改造内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1995年10月2日 |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年8月9日 |
内閣 | 第2次中曽根第2次改造内閣 |
在任期間 | 1985年12月28日 - 1986年7月22日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (旧神奈川3区→) (旧神奈川5区→) 神奈川17区 当選回数:14回 (1967年1月29日 - 2009年7月21日) | |
第16代 自由民主党総裁 (1993年7月30日 - 1995年9月22日) | |
初・第3代 新自由クラブ代表 (1976年6月 - 1980年2月 1984年6月 - 1986年8月) |
河野 洋平(こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本の政治家。
衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第118・123-125代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、衆議院議員(14期)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(初代・第3代)を歴任。
2003年(平成15年)から2009年(平成21年)まで日本憲政史上最長(当時)の期間にわたって衆議院議長を務めた。
父は副総理兼国務大臣(東京五輪担当)、農林大臣、建設大臣、衆議院議員を務めた河野一郎、叔父は参議院議長を務めた河野謙三、第4代デジタル大臣で衆議院議員の河野太郎は長男[1]。
いわゆる従軍慰安婦について述べた「河野談話」を発表したことで知られる。
稲門体育会会長[2]。
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