柏木雄介 かしわぎ ゆうすけ

行政・司法

掲載時肩書東京銀行会長
掲載期間1986/09/01〜1986/10/02
出身地中国大連
生年月日1917/10/17
掲載回数32 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他成城
入社大蔵省
配偶者明治製糖 社長娘
主な仕事成城ダルトン式教育、GHQ連絡係、米国駐在、国際金融局長、財務官(通貨マフィア)、海外滞在通算23年、東京銀行
恩師・恩人渡辺武
人脈三村庸平(曉星中)、鳩山威一郎(省同期)、木内信胤、石原周夫、小林中、前川春雄、堀江薫雄、ボルカ-(米)、エミンガー(独)
備考父・東京銀行頭取、12歳まで米国
論評

1917年〈大正6年〉10月17日 – 2004年〈平成16年〉8月27日)は関東州(現中国)大連生まれ。大蔵官僚。大蔵省きってのアメリカ通、国際金融通として知られる。1968年に設置された財務官ポストは、彼を処遇するために作られたと証言する人もいる。英語が非常に堪能で、相手が日本人だと信じてくれなかったというエピソードを持つ。1971年に同期の鳩山威一郎が事務次官に就任すると、慣例として財務官を退任。そのまま大蔵省顧問に就いた。その後横山宗一に招かれ東京銀行に入り、1977年横山の後任として東京銀行頭取に就任。

1.米国の小学校授業
大正12年〈1923〉9月、コロンビア大付属の小学校、ホレスマン・スクールに進んだ。満6歳で進学となるが、10‐12月生まれの児童は6歳未満での入学が認められていた。学校は1学年2クラス、おのおの30人前後だった。日本人は、というよりアジア人は全校で私ども兄弟二人きりだった。米国の小学校は、後に経験した日本のそれとは大分事情が違っていた。
 体操の時間がなく、音楽はクラシックのレコード鑑賞ばかりで、唱歌はなかった。給食や運動会、遠足、修学旅行もなく、宿題を課せられた記憶もない。ただ毎週1冊の本を選び、その感想文を書かせられた。また、体育の時間がない代わりに、放課後はボーイズ・クラブに入って遊ばせてもらった。これは有料の遊び熟とでもいった組織。プレンさんという人がリーダーで、近所の子供たちを集め、ハドソン川沿いのリバーサイド・パークなどに連れて行ってくれ、鬼ごっこやドッジボールに興じた。
 学校はユダヤ人の子弟が多く、ユダヤ教では土曜が休日となるため、学校も土曜、日曜が休みになっていた。その土曜日には、弁当持参で郊外の公園に遠出し、野球やアメリカンフットボールに汗を流した。

2.米国での家族旅行
父の勤める横浜正金銀行(のち東京銀行)では当時、海外赴任の支店長クラスに対して3年に1度、ホームリーブと称する一時休暇制度を設けていたので、必然的に大型旅行の醍醐味を味わうことになった。ニューヨークの場合、学校の新学期が始まる前の夏期3か月が休暇となる。大正9年(1920)に米国に渡ったわが家では、12年と15年の2度、ホームリーブを満喫した。
 ニューヨークを汽車で発ち、大陸を横断して西海岸の港から日本に向かうのが基本的なコース。ある時はカナダに入り、バンフ、レイク・ルイーズなどカナディアン・ロッキーの雄大な景色の中を進んで、バンクーバーから船に乗ったり、ある時はサンタフェ鉄道を利用して西南部を横切り、ロサンゼルスから日本郵船の定期航路に乗船するという具合に、往路復路でルートを変え、尽きることのない米大陸の自然を楽しんだ。
 大陸横断に4,5日かけ、太平洋を渡るのに2週間前後を要する。この期間中は父を含めて家族全員が一緒に行動するのだから、子供としてはたまらない喜びだった。将棋やマージャン、五目並べ、各種のトランプ遊びなどを教えてもらったのもこの旅行中のことであった。

3.円を国際通貨に
昭和29年(1954)5月15日付で、私は主計局から為替局の調査課長に移った。統制経済から、より自由な国際経済の枠組みに入りつつある転換期に、主計局時代に叩き込まれた交渉力が、必要とされたのかもしれない。ここで英国とのポンド支払協定(ポンド圏で稼いだ外貨、すなわちポンドは、ポンド圏でしか使えず、ドルと交換もできない)を片手に抱えながら、もう一方で、各国とのオープン・アカウント(清算勘定)の撤廃にも関わっていた。
 オープン・アカウントは、政府間の協定により、貿易の決済はそのつど現金で行うのではなく、その貸借関係を帳簿に記載するのにとどめ、毎年ある時点で貸借尻だけを現金で決済するというもの。デメリットとして、この協定には低金利で相手国に信用を供与するという付帯事項もあったから、売掛金が増大し、焦げ付く危険があったので、大蔵省はこれを徐々に撤廃して行こうとの考えだった。
 30年3月、まずドイツとの間で交渉を進めようと、ボンに飛んだ。幸い相手方も同じ意向で、協定廃止の方向はすんなりまとまった。意外だったのは「その代わりに」と言って、以後の決済にはマルクを用いることを提案してきたことだった。円を決済通貨に、などということは私自身思ってもみなかったし、大蔵省内で和話題になることもなかった。が、ドイツは自国通貨を世界に通用する貨幣に育てていくことを、この時点で構想していたのである。余談になるが、ドイツとの取り決めは最終的に、「円」もこちらの要望によって加えられている。これは秘密交換文書だけに記されたことで、当時は公表されなかった。

4.蔵相代理会議の前夜ディナーパーティ実態
昭和40年(1965)6月に、私は財務参事官を拝命して以来、各国最高事務レベル会議には日本政府代表の資格で出席するようになった。42年4月に10か国蔵相代理会議(ワシントン)が開かれたがその前日、米国のデミング財務次官から思いがけず、「今夜の食事は空いてる?」との電話をもらった。少人数で集まるから来ないか、というお誘いである。OKの返事をして指定された場所に出向いてみると、これが驚いたことに、明日の会議で顔を合わせるはずの主要国のメンバーが、勢ぞろいしているのである。1国一人プラス、国際機関の長が一人、二人。
 そして、ディナーパーティとは名ばかり、食事はそっちのけで、「明日の会議はどう進めようか」とざっくばらんに話し合いを始めるのである。「午前中はまずこの問題をやるとして、そうだなキミから問題提起してくれ。あなたが反論を述べたら、ボクが引き取るから・・・」。議長たるエミンガー西ドイツ連銀理事(のち総裁)は実にあけすけに、会議の段取りを決めていく。
 会議の前夜にディナーがあるなど知らなかったし、呼ばれもしなかった。これが会議の内幕というものなのだろう。「通貨マフィア」という抽象的な存在が、具体的な顔と手足を持った人間として、目の前に迫ってきていた。そこに招かれたことはうれしかったが、必ずしも一人前として認められたわけではなかった。

苦労雨が美しい虹に
帰国子女 母がスパルタ教育

柏木 雄介(かしわぎ ゆうすけ、1917年大正6年〉10月17日 - 2004年平成16年〉8月27日)は、関東州(現中国大連市出身の大蔵官僚従三位勲一等瑞宝章

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