松田伊三雄 まつだ いさお

商業

掲載時肩書三越社長
掲載期間1972/02/24〜1972/03/19
出身地香川県詫間
生年月日1896/03/10
掲載回数25 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応予
入社三越呉服店
配偶者記載なし
主な仕事京城(花柳界作戦)、大阪、本店、三越劇場、連合三田会会長、日本百貨店協会
恩師・恩人岩瀬英一郎、山名次郎(上司)
人脈大平正芳(三豊同窓)、猪熊弦一郎(包装紙)、高橋誠一郎、久保田万太郎、早川種三、出光佐三、稲山嘉寛、岡田茂
備考アイデァマン、趣味:常磐津
論評

1896年3月10日 – 1972年6月23日)は香川県生まれ。実業家。元三越社長。1963年(昭和38年)社長就任後は、増改築・多店化推進などとともに、伝統を鼻にかけた社風を一掃して大衆化へのイメージチェンジに成功し、三越近代化の功労者といわれる。1968年(昭和43年)銀座店新築開店、1971年(昭和46年)初めて小売業で売上高が1,000億円を突破する。1972年(昭和47年)、社長の座を岡田茂に譲り、会長に退いた。また、慶應連合三田会2代、4代会長を務めた。

1.昭和初期はデパートが花盛り
昭和2年(1927)、関東大震災の被災から日本橋本店の全館が復興、その内部は日本初の自動扉エレベーター、新式のエスカレーター、換気、暖房、スプリンクラーなど最新設備を完備したものだった。翌3年には三越呉服店の名を、株式会社三越と改め名実ともに近代百貨店となった。そして理髪、美容室、三越ホールを開き、5年には名物のパイプオルガンを米国から購入している。
 大正13年、松坂屋が銀座に支店を新設、翌年には神田にあった松屋が銀座に進出した。三越も昭和5年、新宿の店を本格的な建物を持つ支店とし、同年、銀座に支店を設けた。昭和6年、浅草に松屋の支店ができ、昭和8年、伊勢丹が新宿に進出している。一方、大阪でも新時代に先取りしたデパートの経営が小林一三阪急社長によって進められた。鉄道と百貨店を結び付けたターミナル・デパート構想であり、昭和4年にはその第一号として梅田に阪急デパートが誕生している。こうして現在のデパート原型がほぼ出来上がり、戦時体制に入るまで、まさにデパート時代が花咲くのである。

2.京城で花柳界作戦
昭和5年(1930)5月、34歳の私は京城(ソウル)支店に次長として赴任した。当時の京城では、新聞、テレビなど宣伝媒体はなく”クチコミ“が唯一のものであり、中でも花柳界の”クチコミ“が百貨店にとって最大かつ最強力の媒体であった。「あの百貨店で売り出している反物は品柄もいいし、安いわ」という芸者衆の噂話が口から口へ伝わり、それが売り上げに結び付くのだった。
 そこで思い当たったのが花柳界の芸能祭を店内で催してはどうかというアイデァであった。店の催物場がホールのようになっている。そこに芸者を呼べば店の宣伝になり、人も集まる。この案を芸者の元締めの検番や料亭組合の役員に相談すると、大いに乗り気になってくれた。結局、こちらは場所と昼食を提供、先方はギャラや入場料は取らないということでこちらの申し出を全面的に受け入れてくれた。
 こうして毎年1月になると15日から20日間、芸者衆が連日ホールで艶を競い、京城名物の一つとなった。京城には本検番と新町検番の2つがあり、互いに競争していた。400人近い芸者衆が邦舞、邦楽各流派の競い合いの他、検番同士がライバル意識を燃やし、それがまた人気を呼んで20日間は連日満員の盛況となった。毎日やってくる芸者のあで姿で店内が華やかになる。食堂も花を咲かせたように明るくなる。見物にホールに寄ったお客様は、売り場にも立ち寄り、それが売り上げに結び付く。宴席でも三越の商品、催し物が話題に上る。私どもが企画した作戦が、うまく的に当たったのであるから京城支店は大繁盛した。

3.三越劇場の活用
本店6階の三越劇場は初め三越ホールと呼んでいたが、昭和21年の店再開を機にこの名に改めた。当時、歌舞伎座をはじめ主な劇場が消失して、歌舞伎や新劇の役者が芸を披露する場所がなかった。たまたまホールの顧問をしていた高橋誠一郎さん(現芸術院長)、久保田万太郎さんは「せっかく三越には劇場があるのだから、社会的に役立つよう考えてはどうか」という。松竹の大谷竹次郎さんも大いに乗り気で、梅幸、先代団十郎や菊五郎、吉右衛門の両劇団など、当時の名優が続々と三越劇場に登場した。他に俳優座、文学座、民芸などの新劇、人形芝居、文楽などの古典芸能にも、ここを道場として大いに利用していただいた。25年には三越名人会、三越青年歌舞伎が、また28年には落語会が始まった。

松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本実業家。元三越社長。

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