掲載時肩書 | 京都大学がん免疫総合研究センター長 |
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掲載期間 | 2024/06/01〜2024/06/30 |
出身地 | 京都 |
生年月日 | 1942/01/27 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 宇部高校 |
入社 | カーネギー研究所 |
配偶者 | 医師(早石研究室) |
主な仕事 | NIH,遺伝子の欠失発見、PD-1発見、がん免疫療法、クラススイッチ解明、特許係争、ノーベル賞、静岡社会健康医学大学院、医療産業都市 |
恩師・恩人 | 早石修、西塚泰美、レーダー博士(NIH) |
人脈 | 中西重忠、ブラウン博士、利根川進、真野嘉長、山村雄一、岸本忠三、柴原慶一、石田靖雅、岡田彰布、川勝平太、安藤忠雄、柳井正、山川静夫 |
備考 | 父・耳鼻科教授 |
氏は「私の履歴書」に登場したノーベル受賞者の11人目になる。掲載の早い順に福井謙一(1983.3・量子力学)、小柴昌俊(2003.2・ニュートリノ)、江崎玲於奈(2007.1・半導体)、野依良治(2008.9・キラル触媒)、益川敏英(2009.1・素粒子物理学)、下村脩(2010.7・緑色蛍光タンパク質)、根岸英一(2012.10・クロスカップリング)、利根川進(2013.10・体細胞変異説)、大村智(2016.8・抗感染症)、吉野彰(2021.10・リチウムイオン)に次いでである。そして最終章に、「がんという病は、自らの細胞がほんの少しだけ変化して無限に増殖するようになり、体をむしばんでいく。「自己」から生まれた「非自己」は果たしてどこまで私たちの敵なのか。人類ががんを完全に克服する日が来るかどうかの「予言」は難しいが、仮説を立てて挑戦したい」と今も意欲的だ。
1.基礎医学への判断
2年間の教養課程を終えて医学部1年生(大学3年生)になると、患者を診て治療する臨床医学より研究に専念する基礎医学の方が自分には向いており、面白いと思うようになった。
ある医師にしか治せないような病はまれで、大抵の人は腹痛や風邪の症状を訴え病院にやってくる。大学病院だと、難病の患者さんも集まってくるかもしれないが、医師としての充足感ややりがいがある症例は少ないだろう。対して研究は予期せぬことが次々に起る。仮説を立て実験で検証する。多くが失敗の繰り返しだが、自らの説を裏付けるデータが出たときはきっと興奮するに違いない。それが画期的な薬や治療法として実を結べば、臨床医では経験できない大勢の人の命を救うことになるからである。
2.早石修研究室(詳しくは早石修「早石修私の履歴書」もご参照ください)
京都大学に入学した1960年ごろ、型破りな研究者が医化学教室の教授に着任した。早石修氏である。先生はオキシゲナーゼ(酸素添加酵素)の発見者で、世界を代表する生化学者だ。「来るものは拒まず」の考え。
早石研の名物として語り継がれているのが、毎日昼休みに開かれるランチセミナーだ。教授、助教授、助手や大学院生ら数十人が集い、1本の論文を徹底議論する。毎回一人の発表者が「面白い」と思う英語の論文を紹介し「本当に面白いのか」について意見を交わし合う。発表者はそりゃ大変。「面白い」というのが実は曲者である。なぜ面白いかを伝えるには、参考文献だけでなく関連分野に関する「面白くない」論文にも目を通し、つけ入る隙を与えないよう、理論武装が必要だからだ。
3.本庶研究室
1984年、京都大学医学部の教授に着任して最初に考えたのは、早石修先生から引き継いだ医化学教室を、多様性、そして新陳代謝を重んじながら、運営していくことだった。北は北海道から南は九州まで。京大以外の大学出身者を積極的に採用し、互いに競う環境を整えた。今も昔も日本の大学には、とにかくできる助手や助教授(現在の助教や准教授)を教授が何年も独立させずに自分のところに囲い込む風潮がある。これが極めてよくない。
私は研究室の面々に、大学院を出た後は仮にそのまま助手になったとしても、5年以上は同じ所に在籍しないように指導してきた。海外へ行くか、京大以外の大学、あるいは医化学以外の教室に移り、自分の新しい境地を切り開くことを半ば強制した。振り返ると「本庶研究室」から5人が京大、3人が東大、2人が阪大、1人が名古屋大の教授に就いた。私立大、国立の研究機関を含めると数10人が教授や部長職を得ただろう。
4.「PD-1」がん免疫薬への扉
1986年6月、名古屋大学医学部を出て愛知県がんセンター病院でレジデント(研修医)をしていた一人の若者が研究室を訪ねて来た。石田靖雅くんだ。彼が本格的に胸腺内のリンパ球T細胞研究に打ち込むのは91年のことである。T細胞が正常な細胞まで誤って「非自己」と認識し反応すると、胸腺細胞内のある特定の遺伝子が働き「選択的細胞死」が起きるのではないか。石田くんが立てた仮説はとても興味深かったが、当初の実験デザインは甘く、何度も突き返した。議論を重ねた結果、彼の提案した活性化した細胞とそうでない細胞とを比較する、いわゆる「引き算法」で実験をやってもらった。
数か月後、選択的細胞死に関与するとみられる分子(遺伝子)が見つかったと意気揚々と報告してきた。「PD(Programmed Death=予定された死) -1」と命名したいという。92年11月、論文が掲載された。次にやるべきはこの「PD-1」の機能を調べ、正体を突き止めることだ。
94年、遺伝子破壊法で人為的に「PD-1」の機能を損ねたノックアウトマウスの作製に成功した。このマウスを経過観察していけば何らかの異常が見つかるだろう。1年ほどたったある日、ノックアウトマウスだけに自己免疫疾患の症状が現れているとの報告があった。そして99年、「PD-1は免疫システムにおける負の調整因子である」とした論文を発表した。がん免疫薬への扉が開いた。
5.特許係争
2020年6月、長年の共同研究先でがん免疫治療薬「オプジーボ」を製造・販売する小野薬品工業に対し、約262億円の支払いを求めて訴訟を起こした。PD-1分子を使ったがん免疫治療には大きく分けて3つの特許がある。物質そのものに対する特許、免疫の仕組みに関する特許、そして薬に繋がる用途特許だ。いずれも私と小野薬品が特許権者になっている。小野薬品は米メダレックスと共同開発するにあたり、特許権の独占的使用を認めるよう私に求めてきた。
小野薬品との交渉は、京都大学にいた大手製薬会社出身の知財担当者にすべてを任せた。係争条件の見直しが纏まりかけた頃、今度は小野薬品とメダレックスを買収した米ブリストルマイヤーズスクイブ(BMS)とが、オプジーボに似たがん免疫薬「キイトルーダ」を発売したメルクを特許侵害で訴えたのだ。17年1月、小野薬品・BMSとメルクの和解が成立した。製薬会社同士の紛争がようやく解決してよかったと思った。21年11月、訴訟協力や発明の対価に対する私と小野薬品との係争は、裁判所からの勧告もあって大阪地裁で和解した。
6.司令塔は学者指導に移行を
小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦。数えてみると私は5年半の間に7人の首相にお仕えした。2001年の省庁再編を機にできた総合科学技術会議(現在は総合化学技術・イノベーション会議)の常勤議員を2006年6月から12年1月まで務めた。
霞が関のなかで仕事をしてわかったが、役人が発言権を持ちすぎる。美辞麗句を並べ、どこか夢を語るようにして政治を動かそうとする。経済産業省の官僚が、企業は基礎研究にコストをかける必要はない、色々なリソースは外からとればいい、と。経営者にとっては聞こえがいいだろうが、これは大間違い。内で研究せずに外の研究を評価できるはずがない。大手電機は基礎研究から手を引き今の衰退に繋がった。
米国では政府が予算の大まかな配分だけを決め、中身は学者が決めていく。総合科技会議も司令塔をうたうのなら、官僚主導から学者主導にしなければならないが、現実は逆の方向に進んだ。
7.意外な交友がある
1)安藤忠雄氏(建築家):ノーベル賞受賞の記念碑デザイン、がん免疫総合研究センターブリストルマイヤーズスクイブ棟の外観、内観のデザインをお願いした。
2)山川静夫氏(アナウンサー):静岡県公立大学法人の理事長時代に、静岡の浅間神社の神主の家に生まれた山川さんから色紙を頼まれ、師の西塚泰美先生の「私は何が知りたいのか」を書いた。
3)柳井正氏(ファーストリテイリング):2019年春、柳井さんと対談することで京大に100億円の寄付をいただき、京大のがん免疫研究を支えてくれている。
本庶 佑 (ほんじょ たすく) | |
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生誕 | 1942年1月27日(82歳) 京都府京都市 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 京都大学 東京大学 大阪大学 |
出身校 | 京都大学医学部進学課程修了 京都大学医学部専門課程卒業 京都大学大学院医学研究科修了 |
博士課程 指導教員 | 西塚泰美 |
他の指導教員 | 早石修 |
博士課程 指導学生 | 柴原慶一 石田靖雅 |
主な業績 | |
影響を 受けた人物 | 柴谷篤弘 |
主な受賞歴 | 本文「学術賞」節を参照 |
プロジェクト:人物伝 |
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本庶 佑(ほんじょ たすく、1942年〈昭和17年〉1月27日 - )は、日本の医師、医学者(医化学・分子免疫学)。学位は医学博士(京都大学・1975年)。京都大学名誉教授・高等研究院副研究院長・特別教授、京都大学がん免疫総合研究センター初代センター長、静岡県公立大学法人顧問、ふじのくに地域医療支援センター理事長、公益財団法人神戸医療産業都市推進機構理事長、お茶の水女子大学学長特別招聘教授。日本学士院会員、文化功労者、文化勲章受章者。京都市生まれ、山口県宇部市育ち。
京都大学医学部副手、東京大学医学部助手、大阪大学医学部教授、京都大学医学部教授、京都大学大学院医学研究科教授、京都大学大学院医学研究科研究科長、京都大学医学部学部長、内閣府総合科学技術会議議員、静岡県公立大学法人理事長、先端医療振興財団理事長などを歴任した。
免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用により、2018年にノーベル生理学・医学賞をジェームズ・P・アリソンと共同受賞した[1]。