早川浩 はやかわひろし

文芸

掲載時肩書早川書房社長
掲載期間2025/06/01〜2025/06/30
出身地東京都神田
生年月日1942/05/01
掲載回数29 回
執筆時年齢83 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他都立城南高
入社早川書房
配偶者増田実資源エネルギー長官娘23歳
主な仕事東京五輪通訳、米国留学、エージェント人脈づくり、帰国後副社長、47歳社長、ハヤカワ国際フォーラム、ノーベル賞3冠、エラリークイーン賞
恩師・恩人シドニー・メレディス、V・G・デイヴィス、E・ウィルキンソン、丸谷才一、
人脈野上義二、佐野周二、辰野隆、観音寺潮五郎、山本周五郎、クライトン、クラーク、三島由紀夫、黒澤明、高倉健、ウォ―ナー駐日米大使、宇多田ヒカル、カズオ・イシグロ、村上春樹、栗本薫、原尞、小池真理子
備考父親の教育、素晴らしき内外人脈
論評

出版業界からの履歴書登場では、氏は、司忠(丸善・1969.4)、小林勇(岩波書店・1972.1)、赤尾好夫(旺文社・1972.8)、田辺茂一(紀伊國屋・1976.8)、松原治(紀伊國屋・2004.2)に次いで、6番目である。父親の良き指導で入社後すぐ米国留学を経験し、外国の出版業界の人脈構築、礼儀作法を学ぶことができた。これが原点となり、国内でも多彩な人脈を構築できた内容紹介だった。

1.少年時代(欧米文化と伝統芸能に触れる)
少年時代から映画をよく見た。最も印象深いのはグレアム・グリーン脚本、キャロル・リード監督の「第3の男」だ。父に試写会の案内が来て、「お前も来なさい」と連れていってくれた。米国の音楽もまた私の心に沁み込んだ。自分が歌うのはからきしダメだが、聴くのは大好きで、ペリー・コモやフランク・シナトラ、ビング・クロスビーなどのレコードを繰り返し聴いた。蝶ネクタイを締め、パリッとした装いで歌う姿がジャケットに印刷されていて、なんて格好いいんだと魅了された。
 今はもうない人形町末広で落語を聴き、銀座の歌舞伎座や築地の東京劇場で歌舞伎を見た。特に歌舞伎は祖父母が頻繁に私を連れて行った。落語は柳家小さんや古今亭志ん生などを見た。彼ら名人の芸もさることながら、聴きに来ている客を見るのがとても面白かった。

2.米国留学で武者修行
早川書房に入社して1年あまり。経理部と倉庫を行き来して自分の会社の事業のあらましを理解したところで、父との約束だった海外留学の許しが出た。英米圏の文芸作品の翻訳が多い会社だったから米国か英国ということになる。1966年秋、私は渡米した。留学の主目的はとにもかくにもまず、英語を身につけることである。コロンビア大学の英語学校に入学した。英語学校のクラスには20人ほどの生徒がいた。キューバ人が多かった。62年のキューバ危機後、米国とキューバの関係は冷え込んでいた。だが米国は共産主義からの逃避者として亡命を受け入れていた。米国でスペイン語教師になろうとする人が多く、英語を身につけるため学校に通ってきているのである。
 授業は文法、会話、作文などのほか、米国の歴史についての講義もあった。会話の授業では、他国から来た学生たちの機関銃のごとき饒舌に圧倒された。この国では黙っているのは存在しないのと同じなのだと思い知った。

3.米の有力出版エージェントを担当する
当時、早川書房最大の取引先「スコメレに挨拶に行ってくれ」と日本本社から指示が来た。米国きっての有力エージェント、スコット・メレディス・リテラリー・エージェンシー(スコメレ)のオフィスに入ってたじろいだ。膨大な数の郵便物が廊下にまであふれ、足の踏み場もない。「散らかっていてすまない。それは全部持ち込み原稿だ」。奥から声がした。シドニー・メレディス。私の師匠となる人物である。
「エージェント」については少し説明が必要だろう。出版物の著作権仲介業者のことをこう呼ぶ。著者と出版社をつないで出版契約を取り結び、著作権使用料の一定割合をフィーとして得るビジネスである。日本の出版社が翻訳ものを出す場合もこのエージェントが窓口になる。米国ではエージェントはそうした業務だけでなく、著者のマネジメントまで請け負っている点に特徴がある。出版社や新聞社などからの原稿依頼の取捨選択、執筆のサポート、スケジュール調整から印税の交渉などを幅広くカバーする。自分の才能を売り込む作家志望者と、新しいスター探しに血眼のエージェント。生き馬の目をくり抜く真剣勝負だ。こいつは才能があるのか、凡庸か。本を書かせたら富を生むのか、それとも返品の山を築くのか・・。これは生半可な世界じゃないぞと身震いした。

4.三島由紀夫さん
私が会って特に心に残っているのが岩田豊雄さんと三島由紀夫さんである。三島さんには、1970年2月に会った。築地の料亭で演劇評論家の尾崎宏次さんと座談会の後、父と一緒だった三島さんを自宅に送るため、食事の終わるころ店に入った。店を出てきた三島さんに、車の後部ドアを開けて「どうぞ」と言うと、三島さんは「ご子息、あなたは私の運転手ではありません」と言うや助手席に乗り込んだ。首都高速の料金所にさしかかったとき、三島さんがさっと回数券を2枚差し出した。「往きの分とお帰りの分ですよ」。驚くほど細やかな心配りの人だった。

5.黒澤明監督
黒澤明監督がソ連で「デルス・ウザーラ」の製作に動き出していたとき、東宝副社長の藤本真澄さんから連絡があった。「黒澤に探偵ものを撮らせたい。浩君、これはという作品を推薦してもらえないか」。黒澤監督の「天国と地獄」の原作は当社が出したエド・マクベインの「キングの身代金」だから、藤本さんは相談してきたのだ。赤坂の中華料理店で黒澤監督と面会した。私は50冊ほど作品内容を説明できるよう準備していった。だが驚くべきことに監督はその殆どを既に知っていた。私が作品名を言うと「はい、次」と促され、手持ちはたちまち尽きようとしていた。まずいと焦ったが、「これは面白いね」と監督が興味を示した作品があった。米ミステリ作家エドワード・D・ホックの「怪盗ニック」。「メリーゴーラウンドの馬」などを泥棒が盗み出す荒唐無稽な話しである。黒澤監督がこれを映画化することはなかったものの、おそろしいほどの読書家ぶりに圧倒された。

6.出版業の「攻めと守り」を丸谷才一さんに相談
出版の版権獲得をめぐる競争が激しくなっていた。そんな中、私は息長く読まれる上質な文学作品を出すべきだと考えるようになった。だが「上質な文学作品」とは何か。目利きに聞くしかない。まず相談したのが丸谷才一さんだった。英文学に通じた作家であり、練達の文芸評論家でもある丸谷さんは1950年代にグレアム・グリーンの翻訳を当社から出して以来の長い付き合いだ。そして私が丸谷さんの「担当」なのである。「ハヤカワ・リテラチャー」は世界の現代文学の最先端を日本の読者に伝えることを目指したレーベルだ。
 英文学は丸谷さん、フランス文学は三輪秀彦さん、米文学は邦高忠二さんと国別の専門家に知恵袋になってもらい、作品を推薦してもらった。それだけではない。私自身、欧米の出版社に何度も足を運び、読まれるべき作家、作品の情報を貪欲に集めた。シリーズを創刊したのが77年。ミラン・クンデラなど有名作家を集めて25巻。先鋭的に攻めた企画だったが、世界文学の新しい風を読者に届けることができたと自負している。
攻めの一方で守りを固める必要も感じていた。「ハヤカワ・リテラチャー」創刊の前年、「ハヤカワ・ミステリ文庫」の創刊を始めている。これはいわばミステリの定番作品を文庫化する試みだ。「文庫は防戦のため」と私は考えていたが、これによって読者の年齢層が高めだったミステリに若い読者を呼び込めるという効用があった。「ハヤカワ・リテラチャー」と「ハヤカワ・ミステリ文庫」という硬軟両様の展開は、今に繋がる当社のスタイルの原型となった。

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