掲載時肩書 | 第48代横綱 |
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掲載期間 | 2000/08/01〜2000/08/31 |
出身地 | 樺太 |
生年月日 | 1940/05/29 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 56 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | |
入社 | 二所の関 (佐賀の花) |
配偶者 | 栄太楼娘 |
主な仕事 | 命がけ内地帰還、4場所で十両、32連勝 、柏戸同時横綱、酒5升、脳梗塞36歳 |
恩師・恩人 | |
人脈 | しごき(滝見山)、柏戸が居て自分、 長嶋より野村が好き |
備考 | 巨人・大鵬 ・卵焼き |
1940年(昭和15年)5月29日 – 2013年(平成25年)1月19日)は、樺太生まれ。第48代横綱。1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。同期には後の大関・清國や小結・沢光、前頭の大心、玉嵐らがいる。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「ニ所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた
1.新弟子時代の食事
新弟子検査の時は体重70キロくらいだったが、序ノ口に上がる頃は75キロと増えた。おいしいものを食べたわけではない、肉と言えば鳥の臓物だ。体を大きくするために、どんぶり飯を13杯食べたこともあった。おかずはせいぜい5円のコロッケ1つ、みそ汁、漬物、紅ショウガ、ゴボウに味噌をつけたもの、塩辛やしょっぱいものは刺激になるのでご飯がいっぱい食べられた。
2.一番きついぶつかり稽古
コーチ役の十両・鬼軍曹の滝見山に最後のぶつかり稽古で散々しごかれた。土表に叩きつけられ、これでもかこれでもかと引きずり回されたから、見ている人は「もういい加減にやめさせろ」と言ったかもしれない。へとへとに倒れ込むと、口の中に塩を一掴みガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる。この特訓の上に一日四股400回、鉄砲二千回のノルマがあった。
その上、一番きついぶつかり稽古は、まず自分と同じくらいの者とやって、次は幕下とやって、最後に関取衆とぶつかる。稽古の質と量が違う。一日3回だからくたくたになる。
しかし、恩人の滝見山関が十両を陥落するとき引退を決めたが、私は「わしが横綱になって恩返しするまでどうかやめないでくれ」と必死の思いで子供のように泣いて頼んだ。彼は翌年私が横綱なるまで土俵を務め、男の約束を守ってくれた。
3.ライバル柏戸関
柏戸関の初土俵は昭和29年9月、私より2年先輩で、前をズンズン走り、私が三段目優勝した時、柏戸関は十両優勝と容易に近づけなかった。1961年(昭和36)初場所、大関に昇進、2場所遅れで柏戸関の地位にようやく追いついた。ここから「柏鵬」の綱とり競争が始まる。この場所、11日目に対戦、もろ差しで寄られ、うっちゃったつもりだったが、物言いも、「軍配通り」で負けた。柏戸関が13勝2敗で初優勝、エールフランスの優勝招待でヨーロッパ旅行に揚々と出かけた。私は「打倒柏戸!」目標で猛けいこを続けた。
秋場所、名古屋場所に続き、連続優勝すれば横綱になれるとき、12勝3敗で優勝決定戦となった。決定戦で柏戸関にうっちゃりで勝った。2連覇3度目の優勝となった。
この秋場所後に、柏戸関と同時横綱に推挙された。柏戸関22歳10ケ月、大鵬21歳4ケ月。ともに史上最も若い横綱で、同時横綱誕生は、寛政元年(1798)の谷風・小野川、明治の常陸山・梅ケ谷、昭和の安芸ノ海・照国以来4度目のことだった。
4.還暦の横綱土俵入り
2000年(平成12年)5月29日、満60歳の還暦を迎えた。長寿の今の世の中では、「まだまだペイペイ」と笑われるところだろうが、一昔前なら、相撲界で体を酷使した横綱は短命で、長寿を祝うことは極めてまれなことであった。23年前、36歳で脳梗塞の大病に見舞われ、左半身に後遺症のあるこの私が、まさか赤いちゃんちゃんこではないが、しきたりの赤い綱を締めて健康長寿を寿ぐ「還暦の横綱土俵入り」をしようなどとは思いもしなかった。
あれだけの実績のあった羽黒山、前田山、照国、吉葉山、朝潮、千代の山、柏戸さんという名力士だって、60歳まで生きられず果たせなかったのだ。妻芳子や家族が見守る中、多くの人に支えてもらい感謝一杯だった。
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大関時代の大鵬(1961年5月場所) | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 納谷 幸喜→大鵬 幸喜 | |||
本名 | 納谷 幸喜 (別名:住吉 幸喜/イヴァーン・ボリシコ) | |||
愛称 | コンピューター・北海の白熊 負けない○○ | |||
生年月日 | 1940年5月29日 | |||
没年月日 | 2013年1月19日(72歳没) | |||
出身 | 北海道川上郡弟子屈町 (出生地は樺太敷香郡敷香町) | |||
身長 | 187cm | |||
体重 | 153kg | |||
BMI | 43.75 | |||
所属部屋 | 二所ノ関部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り、掬い投げ、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第48代横綱 | |||
生涯戦歴 | 872勝182敗136休(87場所) | |||
幕内戦歴 | 746勝144敗136休(69場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝32回 十両優勝1回 三段目優勝1回 | |||
賞 | 敢闘賞2回 技能賞1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1956年9月場所 | |||
入幕 | 1960年1月場所 | |||
引退 | 1971年5月場所 | |||
趣味 | 野球、麻雀(現役時代)[1][2] | |||
備考 | ||||
金星1個(朝潮1個) | ||||
2019年7月3日現在 |
大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町出身(出生地は樺太敷香郡敷香町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市)で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。第48代横綱。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録した。昭和時代の大横綱[3]。位階は正四位。本名は納谷 幸喜(なや こうき)、出生名はイヴァーン・マルキャノヴィチ・ボリシコ(Іван Маркіянович Боришко)で、ウクライナ人の父親を持つ。母親の再婚により住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていた時期もあった。