父を正、私が反ならば合

黒田は、先代の父親が、他人から事務用品の商売を「滓(かす)の商売と思いなはれや」と言われたのを受け継いだ。その滓の商品を大切にして、時代の変化に立ち遅れないように努め、事務用品のOA化、情報関連製品の総合メーカーへの道を切り開いたのだった。

彼は大正5年(1916)大阪府に生まれ、昭和15年(1940)慶應高等部を卒業し、家業の黒田国光堂(現:コクヨ)に入社する。黒田は物心ついたときから、家長として、店の主人としての威厳に満ちた父親の姿に接していた。「ボン」と呼ばれながらも、いったん仕事が始まると「邪魔や、どけ」と怒鳴られる戦場のような店の中に身を置き、商売の激しさ・厳しさを体験しながら育った。
ところが、昭和35年(1960)、44歳で社長に就任した披露パーティで、父親はその出席者に向かって次のような前代未聞の挨拶をする。

「世間では往々にして、後継社長を浅学菲才、至らぬ者と紹介されることが多いと存じます。しかし暲之助は、わが子ながら、誰よりも後事を託するにふさわしい人間です」と紹介したのだった。
黒田はこの言葉に発奮して父親の期待に応えるが、後年、父親との関係を次のように語っている。

「後半は、父の魂が乗り移って、私を駆り立てるような毎日だった。『こんな時代、先代ならどうしただろうか』と自問しながら事に当たったことが何度となくあった。父を『正』、私を『反』とするならば『合』の形でひとつの新しい人格が生まれた――と言えるだろうか。私の人生は良くも悪くも、父との相克と受容の歴史なのかもしれない。(中略)
しかし、あえて言えば、二代目は創業者以上に大変である。ことあるごとに比較される。企業を発展させて当然という周囲の目もある。三代目はもっと苦労するだろう。戦後生まれの企業で、二代目として活躍されている方は、その難しさを身をもって感じておられることだろう」(『私の履歴書』経済人二十四巻 117p)
*          *
黒田の父の挨拶箇所を読み、父子の心中を推し量ると目頭が熱くなりますが、父親が息子に贈る最高の賛辞だと感じ入りました。
それまで強い相克があったあとに生まれた、親子の信頼関係です。これほどまでに父親を喜ばせた、経営者としての息子の成長は、最高の親孝行でもあるでしょう。

この項では、一般ではわからない2代目のプレッシャーや苦労がよくわかります。
創業者が2代目の息子に社長を譲るとき、息子が若く30歳代であれば、「少なくとも5年間は新規事業に手をつけるな。その間、社内の経営資源をよく見、取引先との信頼関係を築け」と厳命する場合が多いでしょう。
親子が長く一緒に経営にあたっている場合は、この言葉は不要になります。
しかし、現在はグローバル化が進み、市場の変化が激しいため、その対応が遅れると企業淘汰されてしまいます。それだけ、経営者にはすぐれたリーダーシップと経営能力が求められているので、順調に2代目に経営を引き継がせる、ということは今日難しくなっているようです。