柔軟体操とツボ押さえ

 岩谷はプロパンガス事業を成功させたが、それ以外にも住機器、食品産業にも取り組み、生活総合企業を一代で築き上げた人物である。
 彼は明治36年(1903)島根県生まれで、太田農業学校(現:島根県立太田高等学校)を卒業後、神戸市の運送会社で勤務したのち、昭和5年(1930)ガスの製造販売を行なう「岩谷直治商店」を創業する。昭和20年(1945)に株式会社の岩谷産業に改組し、社長となる。
岩谷の少年時代には羽振りのよかった家も、父親の病気とともに衰退していく。家計が苦しくなったため、農学校の修学旅行にも行けなかった。就職は神戸の海陸運送会社であったが、住み込み奉公のため、朝5時に起き店の掃除をする毎日だった。
 スペイン風邪が流行した年、彼も1週間ほど床についた。故郷を離れる前に父親が、「他人のところで寝込むほどつらいものはない。体に気をつけるんだぞ」と言ってくれたことを思い出し、健康は自分で守るしかないとつくづく悟る。
 このとき以来、酒にもたばこにも手を出さず、若いときはもっぱら「牛乳」と「5時起き」習慣で健康を守ったという。「私の履歴書」執筆当時、86歳だった岩谷は、次のような健康法を語っている。
「毎朝五時に起きる。日曜、祝日も四季を問わず、七十年以上続けている。起きるとすぐ、脚を開いて床に頭をつけるといった柔軟体操をひと通りしてから、手と手をこすり合わせ、額をこすり、わき腹をこする。目のツボ、耳のツボを押さえる。どれも五十回、百回と数えながらやる。血行を良くするために考え出した我流の健康法である」(『私の履歴書』経済人二十六巻 313p)
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 一芸に秀でる人は、何事も徹底しています。
 岩谷は70年以上も我流の健康法を続けていますが、自分にとってよいと思われる健康法を1つひとつ取り入れて、この年月が経ったのでしょう。
 年齢とともに体のメンテナンスをする時間が長くなりますが、自分なりの健康法を実践続ける必要があります。