追いつめられて

俳優、シンガーソングライター、タレント、ピアニスト、画家。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾厚作。父は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。
1937年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍した。1961年、「夜の太陽」で歌手デビューする。『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在である。

両親の七光りと持ち前の好感度で早くから東宝の若手看板スターとして大活躍する。娯楽映画の『若大将シリーズ』が大ヒットし代表作となるが、一方で黒澤明、成瀬巳喜男、岡本喜八といった名匠の作品にも多く出演していた。また、主演映画で歌った彼が作曲の「君といつまでも」は350万枚の大ヒットとなり、爆発的な売れ行きを記録する。映画以外でも作曲家・弾厚作として「夜空の星」などシンガーソングライターとしてもコンサートで大成功を収める。この華やかな時代に母方の叔父が1965年、神奈川県茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業し、彼は取締役に就任していた。
しかし、このホテルは1970年7月に23億円の負債を抱え倒産、そして18億円で売却され、彼は経営陣の一員として巨額の債務を抱えた。この2月前に母親を52歳で亡くしており、悲しみに暮れているところにこのホテルの倒産劇が沸き起こったのだった。彼はいたたまれなくなりアメリカに逃避する。加えて、女優松本めぐみとの外国での電撃結婚が世間を騒がせ、かつてない不遇の時代を迎える。
同年9月に妻を伴って帰国すると、同日夜の記者会見ではマスコミからは借金逃避と外国での突然の結婚に対して、「甘い、甘い」「いい気なもんだ」など厳しい批判が浴びせられた。家もいままでの豪華な家には住めず、2LDKのマンションに引っ越すことになる。叔父の事業の失敗を恨んでも仕方がない。自分の身から出たサビと観念する。
しかし借金の返済を迫られ、苦境で彼の心は荒むばかりであった。そのうえ「若大将シリーズ」は打ち切られ、彼の出番は少なくなっていくと手のひらを返すように彼の周囲から多くの人が去っていった。

「ばかやろう、ばかやろう」。税務署に最低限の生活費は認めてもらったが、収入の大半は差し押さえられる。卵かけご飯の卵を妻と半分ずつ分けたりもした。僕はもらった酒を飲んでへべれけになり、庭の立ち木をなぐり続けた。こぶしが血だらけになっても、まだなぐる。「ばかやろう」。気持ちをどこにぶつけていいのか分からなかった。

そんなときに彼の心情を岩谷時子が作詞して出来たのが、「追いつめられて お前とふたり 知らない街を 歩いている」歌詞の「追いつめられて」だった。この現状の窮地を冷静に見つめ、ここから再出発するとこころに誓う。
そして、とにかく収入を増やすため、ナイトクラブやキャバレー回りをも積極的におこなった。こんな苦労を重ねて借金の返済に充て、質素な生活を続けたので10年で完済することができたのだった。
1970年代に入ると「若大将」シリーズのリバイバルブームが巻き起こり、映画界のスターとして復帰する。また、テレビドラマの出演や彼の新曲コンサートでも超満員となり、第二の加山雄三ブームが沸き起こった。苦節十年、どん底を経験した彼は人間力を高め、新曲の構想を温めた期間は無駄ではなかった。そして海の好きな彼は「苦しい時を支えてくれたのは、海であり、妻であった」と書き、感謝している。