担当記者の苦悩

 石田修大氏(流通経済大学前教授、日本経済新聞社元文化部長)は『自伝の書き方』(白水社)の中で、下記のように紹介しています。石田氏はご自身で記者、デスク、部長として、複数の「私の履歴書」の登場人物を担当した豊富な経験を持っておられる方です。 

『私の履歴書』は原則本人書きだが、多忙な人にお願いする場合など、ときに聞き書きをすることもある。聞き書きの場合は当のご本人に疑問点を質しながらまとめるからいいのだが、本人書きになると、いただいた原稿を直さなければならない。書き手はいずれも功なり名遂げた人物とはいえ、必ずしも文章のプロではない。作家の文章なら明らかな間違いや、よほど理解しにくい表現を除いて、原文のまま掲載するが、大会社の会長や役所のトップとはいえ、文章を書きなれていない人の場合はそうはいかない。いろいろ注文をだすことになる。
 口述筆記でも、はじめから原稿用紙に向かった場合でもそうだが、すらすらと原稿を書いて、そのまま完成ということはまずありえない。誤字脱字もあるだろうし、わかりにくい表現、同じ言葉の繰り返しなど、読み返せば気になる箇所がいくつも出てくるはずだ。そこで書き直しの作業が必要になってくる。(214p)(中略)。 
 話すことと書くこととは、似ているようで、まったく別の作業である。自伝の内容とすべき事実が頭のなかにあるとして、それを口に出して話すのはほとんど何の努力も要しない。思いつくまましゃべればいいし、はっきりしなければ「33年だったか、いや35年ころだったか」と言えばすむ。あとから思い出したことがあれば『そういえば、あのときこんなこともあって』と追加するのも自由である。 ところが同じ事実でも、書くとなるとそうはいかない。まず事実を頭のなかで整理しなければならないし、読者に理解してもらうためにはどう書けばいいか工夫しなければならないのである。

石田修大氏(流通経済大学前教授、日本経済新聞社元文化部長)『自伝の書き方』211p(白水社)

 担当記者はこのように、登場者が読者に伝えたい内容を読みやすく理解しやすい文章に書き改める必要もあるし、序章の生い立ちから終章までの章立てやクライマックスをどこに置くかなども組み立てて30回分の原稿を仕上げなければなりません。

 私(吉田)は日経産業新聞のコラム執筆(筆者プロフィール欄をご参照)を担当したことがありますが、字数制限のある文章を制限内に収めるのは非常に難しく感じました。具体的には1400字の文章が1700字程度になってしまいます。それを担当記者が、内容の本質把握、誤字脱字の修正、引用などの事実確認、字数削減を行ってくれました。これは文章の専門家でなければできないと痛感したのでした。 
 また、外国人が執筆者の場合は、英語版の「履歴書」を掲載するわけにはいきません。当然ベテランの担当記者が日本語で書くことになります。英語版の「履歴書」を直訳するだけでは日本の読者に本人の魅力や業績の素晴らしさをアピールできない悩みがでてきますから。

 前掲の勝又美智雄氏がこの「履歴書」(1991年5月)で初めての外国人執筆担当者として登場しました。交換留学制度の生みの親であるJ・ウイリアム・フルブライトを担当したときの、原稿完成までの苦労を詳細に紹介してくれています。

「インタビューは、自宅でテープに録音しただけで15時間ほど。それ以外にもオフィスで会ったり、電話で長話したりで、軽く20時間は越えたと思う。もちろん、本人から聞いたことだけでは記事はできない。1ヶ月余りの米国滞在中、議会職員や元秘書ら関係者多数に会って証言を採り、連邦議会図書館で大量の資料を集めた。フルブライト氏の母校アーカンソー大学にフルブライト研究所があり、氏の議会活動記録、公文書、書簡類がほとんど寄贈されていることを知って、現地に飛んだ。大学図書館のフルブライト文庫には、関係書類を入れた大型ファイルが2800箱あり、わずか3日間の滞在ではとても見きれない。めぼしいしい資料をざっとチエックし、必要なものをコピーして東京に送ってくれるよう頼んだ。そのコピーだけで1000枚近くあった。 二月末に帰国してから、『履歴書』の体裁に合わせて30回分のプロット作成。テープを起こした速記禄と取材メモをもとに、最初に日本語で書いていった。
 日本語と英語では文章構造が異なるため、あとで和訳するのでは話の運び方も違ってしまう。英語には関係詞という便利なものがあって、次々と補足説明していけるが、和訳では文章がギクシャクして読みにくくなってしまう。そこで「読みやすい和文」を最優先し、その英訳を自分で作って同僚の米国人記者にチエックしてもらう。できた英文をフルブライト夫妻にファックスし、加筆訂正に従って元の和文を直す、という手順を踏むことにした」 

「フルブライト氏のゴーストライターを務めて」Spring 2001 No.32 EPIC world 12

 日本語と英語では文章構造が異なるため、あとで和訳するのでは話の運び方も違ってしまう。英語には関係詞という便利なものがあって、次々と補足説明していけるが、和訳では文章がギクシャクして読みにくくなってしまう。そこで「読みやすい和文」を最優先し、その英訳を自分で作って同僚の米国人記者にチエックしてもらう。できた英文をフルブライト夫妻にファックスし、加筆訂正に従って元の和文を直す、という手順を踏むことにした」 

「フルブライト氏のゴーストライターを務めて」Spring 2001 No.32 EPIC world 12

 勝又氏がGE会長のジャック・ウェルチを担当した際には、ウェルチが米国で退職を機会に出版する自伝から抄訳することで日本経済新聞社と合意していた。
 「私の履歴書」の掲載直後に同新聞社の出版部から同氏の膨大なボリュームの自伝(上・下巻)が出版されましたが(日経ビジネス人文庫)、それを発売前に魅力ある30回原稿にまとめ上げるのは至難の業のように筆者(吉田)には思えました。
 その理由は、勝又氏が「ただし、タネ本があるといっても、新聞連載にそっくり使えるわけではない。30回分の「履歴書」全体の構成づくりから翻訳、そして本人への補足インタビュー、追加材料による執筆が必要になる」と言われましたが、その通りだと思ったのです。

 そして勝又氏によると、米国最強のCEO(最高責任者)といわれているジャック・ウェルチGE会長とルイス・ガースナーIBM会長は性格的に対照的であったといいます。前者は陽気でざっくばらんに何でも話してくれたが、後者は無口で必要以外は答えない人物だったと。
 ガースナー氏の場合もウェルチ氏と同じく自著の『IBM再生物語-病める巨象-』をベースに「履歴書」を書くことになりましたが、『病める巨象』の内容はIBM在籍の9年間の再建物語であるため、本人の個人的な話はこの本には入っていなかったのです。
 それではガースナー氏の全体的な「履歴書」を書くことはできないので、彼の生い立ちや趣味、人生に対する考え方を取材したいと申し込むと、超多忙のため本社で2回、それも45分ずつならOKとの回答が来た。そんな短時間で60年の半生を聞くことは不可能なので何度も交渉したといいます。
 その結果、最終的には3回の面談、それも1時間以内というところまでこぎつけた。制限時間内で、聞きたいことはすべて聞かねばならないという事態であったため、その準備も大変。周辺の膨大な資料集め、関係スタッフの証言集めなどフルブライトの担当時以上の苦労だったことでしょう。
 それをやりきった勝又氏の苦闘を想像するだけで、筆者(吉田)は「良くぞやってくれた!」と賞賛してしまいます。そして、勝又氏はガースナー氏との「取材を終えて」の感想には次のように書かれています。

「ルイス・ガーナー氏の場合は、取材に苦労をした。ウェルチ氏と会えば気さくに、どんどん話をしてくれた。だが、ガースナー氏は極端なまでに私的なことを語りたがらない人で、若いころの個人的な体験、失敗談、家族のことなどを聞きだすのに四苦八苦した。とりわけ私生活については『それには答える必要はない』『言いたくない』の連続。最初は両親と3人の兄弟の名前も言い渋っていた。(中略)。 
面談の制限時間の1分前になると『では次回に』といって立ち上がり、会長室に消えた」
 

ガースナーIBM会長「私の履歴書」を担当して:Spring 2003 No.40 EPIC world 42

取材相手が愛想の良い人、悪い人、そして秘書などの関係スタッフの協力、非協力などで担当記者の苦労も違ってくるのですね。

苦労話の極め付きエピソード(寡黙)は、前掲の刀根浩一郎氏(日本経済新聞社元文化部長)が大横綱・双葉山(時津風親方)の担当記者の涙ぐましい苦労話を次のように紹介しています。

⑤「ごっつあんです」で18回(前代未聞の取材) 
「双葉山の時津風定次日本相撲協会理事長の「履歴書」は昭和35年(1960)1月末に掲載した。『履歴書』原稿が、談話の形式で出来上がることを知って、時津風さんは登場を承諾、まず記者が取材にうかがった。ところが、時津風さんは、玄関先でその記者に、『ごっつあんです。よろしく』と一言いったまま奥にひっ込んでしまった。 
 いかになんでもこれはひどい。『ごっつあん』と『よろしく』で、どうして『履歴書』がかけようか。“周辺取材”を始めるにしても、手がかりさえない。
 結局、その記者は、このふた言から十八回の原稿をものにしたが、時津風さんの寡黙ぶりは想像を絶するものがあった」

談話取材は裏話がいっぱい 215p

私は、これを読んで思わず笑ってしまい、再度読み直しました。その「私の履歴書」概略は、次のようでした。

・双葉山の子供時代は家業が廻船業で石炭を親子で大阪や広島に運んだが、それが足腰の鍛錬となる。

・相撲界に入り、2年8場所で十両に昇進する。(比較:千代の山、若乃花は2場所、鏡里は3場所、吉葉山や栃錦は4場所で十両)そして、大関2場所で横綱になる。いかに昇進が速かったかがわかる。

・69連勝のストップは安芸ノ海(昭和14年1月の春場所4日目)の外掛けだった。前年夏場所の後、満州や北朝鮮に巡業と慰問したとき、アミーバ赤痢にかかった。衰弱しても各部隊の慰問は横綱一枚看板だったので、一日5回も6回も駆り出されて、へとへとになった。(横綱鏡里は弟子だった)。

・有名な彼の相撲スタイルの「受けて立つ」(後手の先)は、次のように書いている。

「私の場合は、向こうに応じて立つ、向こうが立てば立つ。しかし、立った瞬間には、あくまで機先を制している-そういう立ち方だ。つまり後手の先である。西部劇のピストルの果たし合いのようなもので、相手がピストルに手をかけるやいなや、自分のピストルを抜いている。あの状態である。立った瞬間には、自分の十分な体勢になっているのだ。」

・右目は失明に近い状態だったと、引退後に打ち明ける。彼が6歳ごろ、友達といたずらをしているとき、右目を痛めた。相撲界に入り勝負に際して、できるだけ目に頼らぬように心掛け、右目の影響が自分の相撲に表れないよう工夫した。体で相手の動きを感じとり、体で相手のすきをつかむようにした。また、それゆえに、人一倍修練を積んだつもりだという。
だから逆説的な表現をすれば、右目が悪かったから、自分の相撲が強くなれたということになりそうである。

 これを読んで、相撲の奥義をここまで詳細に書き込んだ担当記者のプロ根性に脱帽し、賞賛を贈りたくなります。きっとこの記者は戸籍謄本を手に、時津風親方の郷里を訪問し、小学校の恩師や友人、親戚縁者からいろいろエピソードや人柄を取材されたと推察します。
 相撲界では兄弟子や付き人、相撲協会関係者からも相撲の技術や考え方に関する取材をして、18回の連載を完成させたと思われます。まさに、この記者の努力が無ければ、双葉山の「私の履歴書」として後世に残らなかったでしょうから、大相撲ファンは取材記者に感謝しなければなりません。 

日本画家の奥村土牛も寡黙な難敵だったようです。
記者がいろいろ質問しても沈黙している時が多く、あるときは黙って応接室を出ていき、しばらく戻ってこない。しばらくして戻ってくると、「本日は話す気になれませんので、また後日」と書いた紙を一枚差し出したとのエピソードには仰天しました。困って狼狽する記者の顔が見えるような気がします。