口説き方

前掲の田村祥蔵氏(日本経済新聞社・元監査役で元文化部長)によると、

「今は一ヶ月に一人登場願っているが、担当部が気を遣うのは、いかにして年間十二人の予定者を確保するかということである。日本で最も忙しいに違いない方々を、準備期間も含めると一年近くも何らかの形で拘束しなければならない。お一人お一人の承諾を得るまでが大変であることは、想像いただけるだろう」と書いておられる。

 そうだろうなぁ。「書きたい人より、書かせたい人」を読者や記者も望むであろうし、「書かせたい人」はナカナカ登場に「うん」と言ってくれないでだろうから……です。
 執筆要請をしたい候補者の人選は、前掲の「人選の仕組み」で書いているように、政治、経済、スポーツなど各分野から推薦が出て、一応編集局会議で承認された人物に執筆の内諾をとらないと常務会にかかりません。
 そのため、それぞれの人脈を頼りに候補者に取材依頼をすることになります。
 その依頼する場所が奇想天外だったり、意表を突いた場所だったりで興味深いのでここに紹介します。 

①料亭の風呂場

「筒井芳太郎氏(当時の文化部長)は、今ではもうみかけることの少ない、昔の“ブン屋”気質あふれる記者であった。新聞記者を天職と信じ、仕事について無制限の打ち込み方をした。例えば、彼の人脈づくりの得意の場所は、料亭の風呂場である。夕方になると、新橋、神楽坂などの料亭に赴き、一献ののち、風呂場に陣取る。そこへ企業の社長、重役などが風呂浴びに入ってくる。往時は、なぜかほとんどの人は、料亭に着くと、まず一汗ながしたものであった」

(刀根浩一郎氏「私の履歴書」経済人 別巻—談話取材は裏話がいっぱい—から)

 こうした習慣を筒井氏は利用したのです。顔見知りであれば、ヤァヤァの挨拶となり、初対面であれば名乗ればよいからでした。
 筒井時代、「履歴書」には数十人を超える人が登場していますが、そのうち、3分の1くらいの登場者は、この“風呂場でのお願い”に、「うん」と言わされたと書いている。
 考えてみれば、文字通り裸同士の付き合いであるし、頼まれるほうも、場所が場所だけに“のっぴきならぬ事情”もあります。それでなくとも、料亭の風呂場にまで張り込まれては、観念せざるを得ませんよね。

 この刀根氏も、新人時代、紀尾井町の福田家へ川端康成氏の原稿取りにいったとき、いきなり「まぁ、ひと風呂浴びてきたまえ」と言われ、締め切り間際なのにとイライラしながら檜風呂に入った覚えがあると述懐していました。

  • 飛行機など乗り物に同乗

 創価学会の池田大作氏が、長い交渉の末、ついに「うん」と言ったのは、中国へ向う機上でした。
 国交回復後、初の記者団訪中で、ある記者が中国に赴く折り、香港に向かう(まだ、北京への直行便はなく、香港・深圳ルートであった)機中で、偶然、池田氏を見つけ、「履歴書」執筆を重ねてお願いしたのです。
 池田氏いわく、

「いま、空港でも出発間際にお宅の記者から『履歴書』の件を言われた。日経の記者といえば、どの部と問わず、会えば必ず『履歴書』を持ち出す。この飛行機でもそうだ。こう方々で“御用”“御用”とやられれば、うんと言わざるを得ませんな」
「執筆応諾は、タイミングによることが多い。せっかくこちらからお願いしても、先方にその気がなく、また先方にその気が出ても、こちらの“熱”がさめたとき、呼吸はうまく合わない。 だいたい、シャイな人は自叙伝は書きたがらない。しかしこちらはそんな人こそ書かせたいのだ」

(談話取材は裏話がいっぱい) 

「執筆応諾は、タイミングによることが多い。せっかくこちらからお願いしても、先方にその気がなく、また先方にその気が出ても、こちらの“熱”がさめたとき、呼吸はうまく合わない。 だいたい、シャイな人は自叙伝は書きたがらない。しかしこちらはそんな人こそ書かせたいのだ」

(談話取材は裏話がいっぱい)

②芝居がかり 

「“販売の神様”神谷正太郎氏を口説いた時は、多少、芝居がかったことをした。当時の石本産業第一部長と二人連れだって東京・九段の本社を訪れ、会うやいなや、二人してソファーの上にガバと正座し、『社長、きょうはイエスというまで、ここを動かない覚悟で参りました』。 あらかじめ、周囲から神谷さんにはなしてあったのだが、この日が先途であった。不退転の意気に神谷さんはようやく『ウン』と言った。 
 神谷さんに対してこの作戦を立てたのは、神谷さんが、6百円の月給から五分の一の百二十円に減るにも構わず、日本GMからトヨタに移ったからだ。その理由は豊田喜一郎氏の男の情熱に惚れたからだという」

(談話取材は裏話がいっぱい)

 日本経済新聞社の総力を挙げて「私の履歴書」に出ていただきたい候補者にアタックし、受諾をいただくために涙ぐましい努力をしているのがよく解ります。一般の人なら「そこまでしなくとも」とも思える「風呂場」「航空機」「芝居がかり」のでの説得を読むのにつけ、当新聞社全体の意気込みが感じられます。