商人の使命に徹する

出光は、恩師の水島銕也神戸高商校長の影響で、社員を家族のように扱う大家族主義の経営方針を貫き、非上場の大会社として長く人員削減をしなかった。

明治18年(1885)、福岡県に生まれた出光は、明治42年(1909)、神戸高等商業学校を卒業したが、周囲の非難をよそに、酒店の前垂れ掛けの丁稚奉公を始める。
しかし2年後、福岡の実家が破産、両親や兄弟の面倒を見る必要が出たため、門司に出て石油店を開業した。生業を石油に決めたのは、毎日需要のあるものにすべきだと考えたからだった。
 しかし、彼が仕事を始めて6、7年目に「自分が油を高く売れば向こうが損をする、向こうが安く買えば自分が損をする」ことに対して疑問を感じ始めた。
 その頃、第一次大戦が始まったため、彼は、戦争のため油が足りなくなることは必至であると思った。しかし、消費者はそこまでは思い至らない者が多く、出光はいまのうちに消費者に手当てをしておく必要があると思い、商売気を離れて油の用意をした。
 その結果、彼の客だけは油が不足して仕事を休むようなことはなかったという。
ところが、ほかの事業会社では油が切れて事業を休んだところがたくさん出た。ただ客のために油を用意しただけだったので彼に儲けはなかったが、それが思わぬ結果となった。出光はそれを、商人の使命として次のように語っている。


「しかし戦争が済んだら、油は出光にまかせておけということになった。私は金はもうけなかったが得意先をもうけたのだ。これは大きな商売である。ここに商売人の使命ということを知ることができた。専門家として、油の需給状況を調べて消費者に知らせる、これは大きな私たちの使命である。生産者に消費の状態を知らせて生産者の向かう道を知らせる、これも使命である。商人にはそういった使命というものがあるということを知って、いままでおれがもうければ人が損をするというナゾが解けた」(『私の履歴書』経済人一巻 332p)

この「経営の原点」の項でわかることは、「企業は社会からその存在価値を認められて存続することができる」ということでしょう。一時の利潤ではなく、長い目で見て商人の使命を果たすことで消費者に喜んでもらう商売ができれば、企業存続はできるという好例です。