美女と才女
井上八千代  
京舞
生年月日1905年5月14日
私の履歴書  掲載日1959年11月03日
執筆時年齢54 歳

(1905年(明治38年)5月14日 – 2004年(平成16年)3月19日) 京都、東山区建仁寺町にて生まれる(父:北井清治郎、母:木田いと)。二歳で、当時縄手通車道西入ルにあったお茶屋兼置屋を経営する岡本マスの養女となる。京舞井上流家元の名跡である。四代目を継ぐ。
夫は三代目の孫である片山博通(八世片山九郎右衛門)。人間国宝認定。芸術院会員。日本芸術院賞、芸術祭賞等を受賞。文化勲章受章。後年隠居して初代井上愛子を名乗る。

1.祇園の女紅場(婦女職工引立会社から明治7年に改称))
日本の工業の発展に伴って、職工という言葉が工場技術者を意味するようになり、同時に女工という言葉も生まれたので女紅場と改名したしたわけです。“女工”というのは中国の古典に典拠があるもので、女の芸能という意味だそうです。
女紅場は芸妓・舞妓ばかりでなく、祇園に在住する婦女子一般の教育にも当たったのでした。明治14年には八坂女紅場と改まり、さらに明治35年には財団法人となりました。これが戦後は学校法人八坂女紅場学園となり、これに祇園女子専門学校が付属しているのです。祇園のすべの芸妓・舞妓はたとえ老年であっても、終身、この女紅場の生徒になり、いつも登校して技能に精進できるわけです。現在の課目は舞踊、清元、長唄、地唄、鳴り物、絵画、茶儀、書道、一中節、小唄、浄瑠璃、能楽というように分かれております。
私は19歳で女紅場助教員、26歳で正教員となりましたが、爾来30余年、みずから舞い、人に教え女紅場と共に星霜を経てきました。

2.京舞の種類
1797年(寛政9年)、京都の町は既に篠塚、山岸、東間、その他の師匠があって、京舞はなかなか盛んでした。なかでも篠塚が一番隆盛でした。篠塚は歌舞伎の出だけに、非常にハデで、大衆受けもよく勢力もあったのでした。井上流初代家元のサトは近衛家に仕えていた経験から、舞というものは品が良くなければならない。いたずらにハデな大衆受けをねらうことなく、しっとりとした味わいの中にも、力強く人を打つものが流れるのを理想としたのでした。もちろん、地唄(法師唄)を主とした座敷舞であります。また、ほかの流派とも違って女の師匠であるだけに、自然、女の弟子が多くなり、女というものを中心に洗練されていきましたから、後年になってから井上流は女の舞うものとして定められ、芸風もそのような方向に進んでいったのであります。

3.祇園と京舞(井上流)
江戸時代、官許の島原の廓は武家、公家、商人たちのうちでも一流人の社交場でした(祇園はまだ小さかった)。はじめこの土地の舞の師匠は篠塚流でしたが、やがて井上流が知られるようになりますと、篠塚流の師匠は男で極道者だとう評判もあったことから排斥されるようになりました。
そうなるとしだいに初代家元サトの名が上がり、ついにはサトが正式にこの廓の師匠として招かれることになって、井上流が祇園と結ぶ遠因となりました。
井上流三代目家元の片山春子さんは私のお師匠さんでしたが、“都をどり”の創始者の一人でもありました。お師匠さんは根限り“都をどり”の完成に力を尽くすことになり、それと同時に、祇園ではほかの流儀はいっさいご法度とすることになりました。そのかわり、お師匠さんはよその土地へは教えに行かないーなんでもそんな口約束を協力者であった万亭のご主人との間で交わしたように聞いております。

4.お師匠さん101歳、最後のおけいこづけ
昭和13年9月、お師匠さんは数えで101歳になっていました。病床に就いてから、お師匠さんはオシになりました。物が言えないのではなく、また、言葉を忘れたようにも思われませんでした。まるで、ひとりで無言の行でもしているみたいでした。仰向けに寝たまま、手にしたうちわで舞を舞っていることがありました。うちわを傾けたり、翻したり、それはそれははっきりと舞っているのです。見ていてハッとするほどでした。
松本さださんも毎日のようにお見舞いに来て、お師匠さんを慰めるため枕もとでうたったりします。そうすると舞扇を持って来させて、それに手に持って黙って動かしています。私も松本さんと同じようにして、枕元でしばしばうたったものでした。あるとき、わたしが地唄の芦刈をうたって、松本さんが立って舞ったことがあります。それを目顔で途中でやめさせると、お師匠さんはわたしにそこへ立てと枕元をさしました。こんどは松本さんがうたって私が舞うのです。寝ているお師匠さんの顔を見ながら舞い始めると「その時は、扇をこっちに向けるねん」という具合に扇で指導されるのです。このときが、わたしのおけいこをしてもらった最後でした。4歳のときから、ちょうど30年間、けいこをつけていただいた最後でした。

井上 八千代(いのうえ やちよ)は、京舞井上流家元名跡である。

[ 前のページに戻る ]